神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

「商鑑」とは造語です。「あきないかがみ」と読みます。「商(あきない)」とは商売で、「鑑(かがみ)」とは鑑(かんが)みる、すなわち考えることなので、「商鑑」とは商売を考えるという意味です。三木 久雄さんが「鏡」に映して歴史を考えるという趣旨で掲載しています。

第6話 商店街の誕生

第6話 商店街の誕生

1095-01.jpg 「元町商店街」は「町」です。旧「西国街道」沿いに東西1.2キロメーターに亘って商店の立ち並ぶ商店街です。では、日本で、いつ、どのように、「町」という商店街が誕生したのでしょう。

 モノとモノとを交換する物々交換は、交換されるモノとモノとが等価であることで成立します。さらに、両当事者にとって、不要なモノを必要なモノと交換するのが条件ですから、両者の間に合意が成立し、交換が順調に行くとは限りません。物々交換である限り、交換経済の進展は望めないのです。交換経済が進展するためには、モノが、より汎用性の高いカネと、交換される貨幣経済が定着しなければなりません。
 古代日本が、当時の先進国家であった唐の律令制を範にして大化の改新を成し遂げ、律令国家体制を確立した飛鳥時代、すでに貨幣経済が進展していた唐に倣って、和同開珎という貨幣を鋳造し、その後、平安時代の中頃まで、皇朝十二銭と呼ばれる12種類の銅銭を鋳造しました。しかし、当時、日本では貨幣経済が定着する社会条件が整っていなかったので、貨幣は交換経済に実態上用いられませんでした。
 一方、奈良、平安と続く律令体制下の日本で、水稲耕作を主とする農耕技術は着実に進化し、農業生産が拡大し、次第に余剰生産物が増大すようになると、班田収受による公地公民を基本とする律令体制が、貴族、寺社の荘園という私有地化の進展によって崩壊し始め、自家生産、自家消費、の閉ざされた経済から、農業、手工業の分業化による開かれた経済に転換していきました。
 鎌倉、室町と続く武家体制の下、交換経済が発展し、物資の流通の広範化に伴って、貨幣の使用が増大し、貨幣経済の到来によって、商業活動が本格化しました。四日市、八日市、に名が残るような定期市から、常設の市場が京都、奈良など先進都市に誕生し、その商業地域は、「町(まち)」と呼ばれました。所謂、移動販売ではなく、お客様を待つ常設の商業施設だから「まち」なのです。「町」には、棚に展示した商品を見せる商店が立ち並びました。「店」を「たな」と読み、「みせ」と読むのは、店舗が商品を、「たな(棚)」に展示し、「みせ(見せ)」る場所だったからです。
三木 久雄
PCサイトを見る スマホサイトへ戻る