神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

シェアしてね!

海文堂という品揃えのいい書店を見つけて、散歩に飽きたらそこに入ってあちこち書棚をめぐってひまつぶしをするようになった。

【海】という名の本屋が消えた(38)

【海】という名の本屋が消えた(38)

平野義昌(元書店員)
探偵小説(5)

 1931(昭和6)年11月、森下雨村が博 文館を退社し作家活動に専念する。森下 は『新青年』創刊時(1920年)から編集長 を勤め、多くの作家・翻訳家を集め育てた。 江戸川乱歩は「探偵小説流行の機運」を 作った人物と評価する(註1)
 翌32年夏、横溝正史は『探偵小説』編 集長を辞し、森下の後を追うように退社 する。
《理由は「新青年」「文芸倶楽部」「探偵小 説」と歴任しているうちに、私はすっかり倦 み疲れてしまったのである。》(註2)
 森下と乱歩が自重するよう忠告した が、正史は原稿料で生活できると思った。
 同年11月、「横溝正史の首途を励ます 会」に69名が集まり、森下が開会の辞、乱 歩が激励の辞を述べた。歌い、踊りの賑 やかな会で正史の門出を祝った。乱歩は 森下と浜尾四郎(華族、弁護士で作家)3 人が禿頭を並べて飲んだことを面白おか しく書いている。(註1)
 33年5月正史は喀血する。結核の自覚は なく、肺炎と思っていた。食欲もあった。乱 歩が避暑がてら信州の療養所に入るよう 勧めた。正史は乱歩の見舞金で帽子やス テッキを買い、物見遊山気分で入所する。
《ところがアニハカランヤである。富士見の 療養所で正木不如丘(まさきふじょきゅ う)先生に一喝されるに及んで、私ははじ めてじぶんの病気のなみなみならぬもの であることを、ハッキリ認識したのだから、 まことにノンキなことであった。》(註2)
 正木医師は俳人で探偵小説も書いた。 正史は療養所で3ヵ月過ごし、自宅に戻り 原稿を書くが、疲れがひどかった。34年 春、『新青年』水谷準編集長が友人を代 表して、1年間の休筆と転地療養を宣告 し、生活保証を申し出てくれた。正史はあ りがたく受け入れ、信州上諏訪、正木の自 宅近くに移る。療養しながら、『新青年』に 作品を発表し、時代劇も書きはじめた。38 (昭和13)年から『講談雑誌』(博文館)に 連載した「人形佐七捕物帳」が人気を博 し、単行本も版を重ねた。
 一見優雅な療養生活だが、信州では 大家から肺病を理由に二度立ち退きを要 求されたし、特高刑事が正木に事情を聞 きに来た。自宅に戻っても監視された。編 集者時代にプロレタリア作家とつき合い があったからだ。
 正史は、咳・発熱・喀血・全身疲労の最 中、故郷の異国情緒とモダンな雰囲気を 思い出し、幻想の世界に身を委ねた。
《――僕はいま病気だからいけないけれ ど、もう少し恢復して、長途の旅行に耐え られるようになったら、もう一度あの暖い 静かな海に面した南の港町に住むことに しよう。港町のあの温柔な日光の、潮の香 を含んだ香ぐわしい空気と、うまい食物 と、坦々たるアスファルトの舗道と、もの珍 しい異国的な雰囲気は、再び僕に健康を 取り戻してくれ、麗しい空想の世界を繰拡 げてくれるだろう。》(註3)
 異国人と親しみ、不思議な物語を聴 き、伝説の宝石や絵を集めよう。
《――僕は港町の山の手の丘の上の、あ のものうい汽船の銅羅の音や、南京寺の 鉦の音が響いてくるあたりに、箱根細工の ような奇妙なカラクリ仕掛の家を建てよ う。僕の家はドンデン返し、鏡抜け、引抜 き、迫り出し、廻り舞台。電気ボタン一つ 押せば、廻転木馬のようにクルクル廻りだ す。(略)》(註3)
 錬金術や催眠術、芝居を楽しみ、乱歩 をはじめ人気作家を召抱えて、物語を書 かせよう。
《――ああ、僕は幻の王であり、空想の奴 隷である。》(註3)
 以上は「槿槿先生夢物語」と題された 文章である。黄表紙「金金先生栄花夢 (金持ちの養子になり放蕩する夢物語」) をもじったと思われる。朝に花開いて夕方 しぼむ「槿」を我が身のはかなさにたとえ たのだろう。
 39(昭和14)年、正史は東京に帰る。正 史を支えたのは友人たちだけではない。 内助の功があった。1976(昭和51)年、妻 孝子との金婚式を前にして綴った文章が ある。
《......この五十年間平穏無事でといいた いが、現在の私に肺がひとつしかないくら いだから、いくたびか生命のピンチに襲わ れてきた。いまも年に何回か喀血する。そ れをそのつど切り抜けてきたのは、ひとえ に孝子の忍耐強い看病によるところであ る。》(註4)
 時間を戻す。25(大正14)年の秋、正史 は継母の遠縁・中島孝子と婚約した。孝 子の兄が医者で、彼女は行儀見習いかた がた薬局の手伝いをしていた。翌年秋結 婚の約束が、正史の東京転出で延期に なった。27(昭和2)年正月、神戸で挙式。 正史26歳、孝子22歳、家族だけの素朴な 式だったが、正史を東京駅に見送りに来 た水谷夫妻と本位田準一(ほんいでん、 乱歩の旧友で博文館編集者)が急遽神 戸まで同行し祝福している。
 さて、正史と乱歩の戦中戦後の交流で ある。乱歩の記録に「昭和八年七月 長 野善光寺、上諏訪、箱根、熱海、伊香保な どに旅行」とある(註1)。上諏訪の正史を見 舞い、そこからハガキで『新青年』水谷編 集長に新作を約束した。乱歩はまた休筆 中だった。同年12月号に「悪霊」第1回を 掲載したが、休載が続く。正史は翌年4月 号に憤慨の投書「江戸川乱歩へ」を書い た。
《復活以後の江戸川乱歩こそ、悲劇のほ かの何者でもない。僕は一昨年彼が休筆 を宣言するまでに書いたあらゆる作品に 対して多大の同感と尊敬を持っているも のである。(中略)ところが、二年間の休養 を経て書き出した近頃の作品は、一体何 というざまだ。何のために二年間休養して いたのだと云いたくなる。》(註1)
 正史の叱咤激励だが、乱歩は自分に直 接言わないことを「不快」と怒る。乱歩は 同時に他の雑誌にも「妖虫」「黒蜥蜴」「人 間豹」を連載した。どれも休載が続いた が、編集者たちは「実に我慢強く、私を甘 やかし、私をおだて、......続きを書かせ」 た(註1)。結局「悪霊」は中絶する。
 ふたりは絶交してはいない。37(昭和 12)年7月乱歩は上諏訪の正史を訪ね、 翌年も正史に誘われ諏訪神社の祭を見 物している。
 時局柄犯罪を題材にする小説は発表 できず、作家たちは科学小説や戦争小説 に転じた。乱歩は当局から作品改訂を命 じられ、40(昭和15)年自ら「陰獣」「人間 椅子」などを絶版にした。41年全作品が 絶版処分され、乱歩は印税なしの休業状 態、出生からの記録「貼雑帳(はりまぜ ちょう)」を製作する(写真)。市民として隣 組や町会役員、作家としては産業報国会 や大政翼賛会で戦争協力に動員される。
 正史は岡山に疎開していた。ふたりの 再会は戦後、47(昭和22)年11月乱歩の 関西講演旅行途中。神戸から西田政治も 同行し、岡山で講演や座談会をしながら3 日間正史宅に泊まっている(註1)
 乱歩の死(1965年)から10年後、正史 の述懐である。
《乱歩とのつきあいは四十年を越える長き に及んだ。その間、気拙い時期もあったけ れど、私の心の中にはつねに乱歩の面影 があった。乱歩逝って十年、ちかごろの私 の口癖はこうである。 「あのなあ、乱歩さん」(後略)》(註5)
1421.jpg
「出生ヨリ四十七才マデノ鳥瞰圖」の一部
(平井隆太郎・新保博久編『江戸川乱歩アルバム』河出書房新社1994年)


註1 江戸川乱歩「探偵小説四十年」『江戸川乱歩全集』(講談社)所収
註2 横溝正史『自伝的随筆集』(角川書店)
註3 横溝正史「槿槿先生夢物語」(『新青年』昭和10年2月号)『探偵小説昔話』(講談社、1975)所収
註4 横溝正史『横溝正史の世界』(徳間書店、)1976年)
註5 初出『幻影城』1975年7月号(『自伝的随筆集』所収)
PCサイトを見る スマホサイトへ戻る