神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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この企画は、かつての西国街道が「元町通」(明治7年)となり、商店街となった大正末期・昭和初期から、アーケードが完成する昭和28年までの「元町通」を紹介するコーナーです。

第8話 骨董店編(3) 「珍産商会」

第8話 骨董店編(3) 「珍産商会」

788-01.jpg昔の元町を語るにあたって忘れることができない骨董・古道具店に生花道具の花卉類や床の間に飾る古美術品などを扱った「珍産商会」があります。旧三田藩主の九鬼隆義などを客にもつおそらく明治後期創業であろうこの店は、5丁目山側にあった極楽寺の東隣(今のはた珈琲店近辺)、後には西手の今の「吾妻屋」(あられせんべい)の位置に移りましたが、この店はかつて菊田一夫(本名は菊田数男)が丁稚奉公した店として歴史の片隅に名を残しています。「君の名は」の原作者で知られる菊田一夫がこの店にやってきたのは大正9年11月の「誓文払い」の初日、11歳の不遇の少年は7度目の養父に売られて大阪・道修町から元町通にやってきました。「丁稚は人にあらず」の時代にあって、わずかな幸運は、外人客も出入りするこの店の店主の情けで4丁目にあった夜間学校に通わせてもらい、そこで友に恵まれ、やがて「詩」に触れて文学青年のはしくれになったこと。やがて大正12年結成の「元五青年団」の機関誌「桜草」のただ一人の編集人もつとめましたが、その熱心さから仕事で失敗を重ねて「がしんたれ奴」(役立たず)と叱られ、「丁稚は主人の奴隷やおまへん」の言葉が元町で大問題となり、また、交際していた旧知の貿易会社令嬢が親から丁稚との交際を反対される出来事もあり、菊田一夫は「5年に及ぶ元町の丁稚奉公生活」に嫌気が差し、大正14年に店をやめて上京、詩人サトウハチロー宅に出入りし、同時期に東京でどん底生活する林芙美子とも知り合い、浅草の「笑の王国」の座付き作家を経て、やがて東宝文芸部に入りました。その間、上京時に神戸駅まで見送ってくれた社長令嬢は神戸沖で入水自殺し、昭和20年には神戸大空襲で「珍産商会」も焼失してしまいました。
 戦後、かつて5丁目で人生のすれ違いの悲哀を味わった菊田一夫は、男女のすれ違いを描いた「君の名は」(昭和27年)で時代の寵児となり、舞台脚本・演出家として川口松太郎らと並んで「四天王」の呼ばれるようになりました。舞台「放浪記」(原作は林芙美子、演出は菊田一夫)の主演・森光子が「菊田先生」と慕う菊田一夫は元町100周年(昭和46年)の2年後に他界しました。(昭和36年初演の「放浪記」は帝国劇場でロングラン記録を更新中です)
安井裕二郎
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