神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

この企画は、かつての西国街道が「元町通」(明治7年)となり、商店街となった大正末期・昭和初期から、アーケードが完成する昭和28年までの「元町通」を紹介するコーナーです。

第11話 元町通の写真館(3) 「続・市田写真館と平村写真館」

第11話 元町通の写真館(3) 「続・市田写真館と平村写真館」

806-01.gif明治中期の元町通には2丁目に「市田写真館」(市田左右太)、6丁目に「平村写真館」(平村清)の神戸を代表する有名写真館があり、一握りの富豪らが写真に「芸術」を求める時代を撃ヲ、東京・横浜と並んで神戸が日本の写真界をリードすることになりました。
明治22年(1889)には東京に日本初のアマチュア写真倶楽部の「日本写真会」(榎本武揚が会長)が誕生し、さっそく会員となった平村清は翌明治23年に神戸沖で行われた神戸で最初の海軍の観艦式を諏訪山から撮影、手で彩色した大型写真を同年に上野で開催された第三回内国勧業博覧会に出品し、小川一真(かずまさ、明治写真界の重鎮)、鹿嶋清兵衛(日本初のアマチュア写真家)の作品と共に大絶賛されました。一方、明治24年には神戸随一の廻船問屋だった栄町の「長門屋」の光村弥兵衛が没する出来事があり、その葬儀写真を撮影したのは「市田写真館」。その葬儀写真に興味を抱いた一粒種の光村利藻(としも)は早速、居留地のトムソン商会から輸入カメラを入手、「市田写真館」に持ち込んで市田左右太から直接手ほどき受けました。その年に慶応義塾に入学して上京した光村利藻は、宮内省に出入りの小川一真に伝授料200円を支払って当時最新の「コロタイプ印刷」(写真原理を用いた美術印刷)をマスターし、相続した遺産3000万円を美術印刷につぎ込み「光村印刷」(東証1部)の基礎を築きました。『原色版印刷の光村』と呼ばれた光村に写真技法を伝授した人として特筆される市田左右太の市田家の養子の市田幸四郎は「市田写真館」内で「市田印刷」を創業、大正中期に日本へ輪転機を用いたオフセット印刷を導入し、『オフセット印刷の市田』と呼ばれたことから、市田幸四郎の源流として市田左右太の名は日本の印刷史にもその名を残すこととなりました。(市田印刷は後に日清印刷に吸収され、やがて大日本印刷に合流しました)
安井裕二郎
PCサイトを見る スマホサイトへ戻る