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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

専崎彌五平(6)

専崎彌五平(6)

 商いを一手にひきうける彌五平は、長州兵のための宿舎づくりに追われている。

 長州兵が西宮へついたのは慶応三年(一八六七)十一月二十九日である。

 彌五平の目には、三年ぶりにみる長州の兵は、数段たくましくなったようにみえる。 

 なつかしい兵がいる。京からかろうじて逃げ落ちたものの、そのときの傷がもとで他界した者の話もきく。感傷にひたる間もなく、緊迫した世情のなか、血気さかんな長州兵のなかで彌五平はてんてこ舞いの忙しさである。 伊藤俊輔が兵庫へついたことをきかされても、たずねる暇もない。

 幕府側と長州・薩摩軍は、年があけた慶応四年一月三日 鳥羽伏見で戦火をまじえるが、あっけなく翌日にはおわる。これ以上の混乱を避けるために六日、徳川慶喜は、影のように大阪から船で、江戸へかえる。

 朝廷をとりこんだ長州と薩摩は、慶喜以下二七名の官位をうばい、旧幕府領を直轄地にしたうえ、幕府勢力を一掃するため諸藩に出動を命じた。

 備前兵が神戸にやってきたのもその動きのなかにある。

 十一日、行列の前を横切った外国兵を殺傷する事件が三宮でおこる。

 生島四郎大夫が、幕府の金を隠し持っていたとして善福寺へ拘留されたのは翌十二日。

生島四郎の断罪を聞くと彌五平は、西宮の荷揚げ場から、兵庫へむかう船にとびのった。 長州の兵をたばねる立場にある伊藤だが、血の気がみなぎっている。

 血気の源は幕府への憎しみである。小塚原で、樽づめのされた吉田松陰の目を覆いたくなるような裸の死体をみて幕府への憎悪は骨に染みこんでいる。憎しみをバネに、幕府の隠密も殺している。攘夷論者の孝明天皇を退位させるための事例を調査しているとして、盲人で幕府の和学講談所の教授塙次郎を待ち伏せ殺す、という刺客の経歴もある。

 百姓あがりの俊輔である。金には厳しい。松陰の塾に通ったとはいえ、その精神を胸にうけとめるまでになってはいない。幕府に代わるものがおさめる世のなかになればいい。

 彌五平は、伊藤の顔をみるなり四郎大夫の断罪を確かめた。

 後、彌五平は邸宅を東川崎町にかまえる。旅館や廻漕業をいとなみ、長州の縁で陸海軍のご用達も勤める。明治十年、西南征討の際、邸は運輸事務所にあてられた。明治十九年、宮内省に買い上げられ御用邸となる。明治二十九年、彌五平が正7位に叙せられたは、俊輔が博文と名を改め首相の座にあったころである。明治三十四年八月十二日、彌五平は七十二年の生涯を閉じる。

岩田照彦
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