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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

海外派遣

海外派遣

 663年(天智2年)8月28日。
 倭(日本)船数百艘は、唐・新羅連合軍に囲まれた百済の砦である周留城救援のため、白江(錦江)の河口で、昨日につづき唐の水軍170艘と対峙していた。
 この事態に至ったのは660年10月、百済の使者がもたらした救援依頼である。
 新羅・唐連合軍に攻められ壊滅した百済であったが、国の再興をはかる遺民の将・福信の使者が唐人捕虜100人を連れて日本へやってきたのに始まる。人質として日本にいる王子・豊璋の送還と日本の来援を求めてきたのだ。
 飛鳥の宮では、はりつめた空気の中で議論が重ねられた。
 国内の統治も、東北地方の遠征で目鼻がたったところである。百済を失えば、飛鳥の政府は朝鮮半島に足場を失うことになる。
 百済の要請に応じることは、新羅はもちろん唐とも戦うことになる。唐には前年、5年ぶりの使いをだしたばかりだった。
 が、百済が滅びれば、唐・新羅の連合軍がその勢いのままなだれを打って日本へ攻めこんでくることも懸念される。戦いもせず座して攻撃を受けるか。百済の来援を機に海外派兵に乗り出すか。海外派遣の前例は、神功皇后による三韓征伐の説話だけである。争いを避けて百済を救う手立てはないのか。
 660年12月24日、評議の結果を受けて68歳の斉明天皇は百済への救援軍派遣を宣言した。翌年の正月、中大兄・大海人両皇子とともに博多へ着いて間もなく、斉明天皇は亡くなった。
 海外派兵のため国運を背負って準備に奔走したのは中大兄皇子(天智天皇)である。軍隊の集積、兵糧の確保、艦船の擬装、水夫の訓練、武器の修造、百済との連絡など極限状態の作業が続く。
 662年正月、百済の王子を擁した先発部隊が出発、翌663年2月には、2万7千人の軍勢が百済軍と合流、各地に転戦する。そして決戦の場としたのが周留城につながる白江の河口だった。
 自陣に張り付く新羅・唐の水軍に、倭船の軍団は捨て身の突撃を敢行した。無謀な倭船の乱れをついて、唐の水軍は、左右から攻撃を仕掛けた。
 決戦は、あっけなく終わった。この戦を『旧唐書』は「4度戦って勝ち、その船400艘を焼く。煙と炎、天にみなぎり、海水みな赤し」。日本書紀は「ときの間に官軍破れ、水に溺れる者多し。舳艫巡らすを得ず」と記録に残している。
 倭の軍団は、転戦中の者を集め、亡命を希望する百済人とともに帰国した。
 664年、唐の来襲を確信した飛鳥政権は、壱岐、対馬、筑紫国に防人を配置、司令部的機能の拠点として板葺き屋根に掘っ建て柱の太宰府建設を急ぐ。都との間には山城を築き、緊急連絡を阻害しない道路と、のろしによる情報伝達網まで整備した。
 山陽道は、国難にそなえて当時の政権が工事を急いだ緊急道路でもあった。
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