神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

山陽道

山陽道

 道路は、自然村落を結ぶ踏み分け道としてはじまった。商店街になっている道も、かつては、周辺に住みついた人たちの足で形作られていったにちがいない。
 それが「山陽道」とよばれるようになったのは、中央政権が成立した大化改新から大宝律令制定にかけての七~八世紀以降である。
 地方の豪族をまとめて国の形にした政権が、強力に取り組んだのは道路の整備だった。公務移動、公文書移送、税の運搬、緊急連絡、地方情報収集物資の輸送など、政権の拡大と維持に欠かせない公共事業である。山陽をはじめ、東海、東山、北陸、南海、山陰、西海道の七つの行政区画に、その地域をつなぐ七つの官道を建設したのである。
 播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の八カ国をつなぐ山陽道、さらにその先にある肥前・筑後・肥後・薩摩の国府を経て大隅に至る九州に展開する西海道。丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の国をたどる山陰道。若狭・越・越前・越中・越後の五国をまたぐ道になった北陸道。伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の太平洋に面する十五カ国を結ぶ東海道。東山道は、近江・美濃・飛騨・信濃・出羽・上野・下野・陸奥の八カ国を結ぶ。南海道は、太平洋と瀬戸内海にそった紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の六国を結ぶ。
 山陽道の東の入り口に位置する神戸市は、昭和四十六年九月に発行した市史(別録)のなかで、「山陽街道の変遷」として書いている。原文のまま紹介しよう。

 「帝都が大和の飛鳥地方に存し、若くは難波に遷りたる時代にありては、山陽街道は難波より直ちに海岸を経て、武庫の津(津門)、葦屋に出でしものなるべし。都の奈良に遷るに及びて和銅四年正月、山背国相楽郡岡田駅、同綴喜郡山本駅、河内国は交野野郡楠葉駅、摂津国島上郡大原駅、同島下郡殖村駅等を置く。蓋し当時の山陽街道は奈良より北して木津河畔に出で、男山を迂回して楠葉より淀川を渡りしものなりき。大原・殖村の地共に詳ならざるも、蓋し三島郡西南部より豊島郡に渉れる山地の南を迂回せしものならん。然るに帝都平安に遷るに及びて、何時の頃よりか山崎より直ちに西して此の山地の北を過ぎ、猪名川・武庫川の平坦部に出づる事となれり。延喜式(延喜5年、醍醐天皇の命による藤原時平らが編纂をはじめた律令法の施行細則の法典)に摂津国草野・葦屋・須磨の三駅を録す。草野は今の豊野郡萱野村にして、葦屋・須磨が今の蘆屋・須磨たるは論なし。」

 官道には、重要度に応じて大・中・小路の等級をつけている。山陽街道は七道のなかで唯一「大路」に格付けされていた。
 台地や丘陵に切通し、直線にこだわった官道の中継地には駅があり、準備された人や馬に乗り継ぎ先を急ぐ。外国から迎える使節団のために、駅の高台に瓦葺き白壁の楼閣までが設けられている。
 その山陽道の整備を急がせたのは、百済に派遣した軍事戦略の失敗にあった。
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