元町マガジン
元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。
もっとも早くスタートしたのは酒井氏が治める十五万石播磨国姫路藩の「好古堂」で、元禄四年(一六九一)にできている。元禄七年(一六九四)には九鬼氏三万六千石の摂津三田藩「造士館」がつづく。元禄八年(一六九五)には織田氏の丹波柏原藩二万石に「崇広館」がデビュー、宝永六年(一七〇六)は森氏二万石の播磨赤穂に「博文館」が開校した。享保三年(一七一八)には播磨安志藩一万石小笠原氏の「明倫堂」、明和三年(一七六六)には丹波篠山六万石の青山氏が「振徳堂」を、安永四年(一七七五)には但馬出石三万石の仙石氏が「弘道館」、寛政六年(一七九四)は播磨林田藩一万石の「敬業館」を開設する。寛政八年(一七九六)は播磨三日月藩森氏一万五千石の「広業館」、天保二年(一八三一)播磨龍野藩五万一千石の「敬楽館」、天保三年(一八三二)但馬村岡藩一万一千石の「日新館」、天保四年但馬豊岡藩一万五千石の「稽古堂」、同じ天保年間には、播磨小野藩一柳氏一万石の「帰正館」、同じく天保年間に播磨山崎藩一万石本多氏の「思斎館」、安政二年(一八五五)には池田氏播磨福本藩一万石に「時習館」と続く。