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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

柴田剛中(9)

柴田剛中(9)

三村 官軍の支配地に
 人物を紹介している間に、明治がちかづいている。

 慶応三年(一八六七)十二月七日、兵庫開港の式をおえ、王政復古の宣言とともに柴田剛中が江戸へ去ったことは前回かいた。

 王政復古の号令とはこうである。

 「徳川内府(内大臣)、従前委任ノ大政返上・将軍職辞退ノ両条、今般断然聞コシメサレ候。ソモソモ癸丑(嘉永六年)以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸褥ヲ悩マセラレ候御次第ハ、衆庶ノ知ル所ニ候。コレヨリ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今マズ仮リニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置カレ、万機ヲ行ワセラルベク、諸事神武創業ノ始メニ原ヅキ、 紳・武弁・堂上・地下ノ別ナク、至当ノ公議ヲツクシ、天下ト休戚ヲ同ジク遊バセラルベキ叡念ニ付、各勉励、旧来驕惰ノ汚習ヲ洗イ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ、奉公致スベク候事」

 将軍慶喜は大政を奉還し、朝廷は王政復古を宣言したが、権力が幕府から朝廷へすんなり移行したわけではない。体制がととのうまでは、従来通りということになる。幕府の名前は消えても、公武合体という形で慶喜を中心にする政治体制は温存されかねない。幕府を倒して新しい国をつくる考えの西郷隆盛や大久保利通にとって、「天下の人心」にそうことにはならない。

 西郷らは、基盤を確立するためには争いで決着をつけなければならない、とする考えである。幕府側の考え方は、名を捨てても権力の座をたもつことにある。岩倉具視など公家を巻き込んだ薩摩も、幕府の抵抗に業を煮やしている。西郷が仕掛けたのは江戸での騒乱である。怒った幕府側は、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちにする。

 江戸での事件を種に慶応四年(一八六八)一月三日から四日にかけ、薩摩と長州兵が幕府軍と鳥羽伏見で一戦をまじえる。数のうえでは3倍の兵力をもつ幕府軍だが、譜代大名の彦根藩まで敵にまわる時代である。いくさの場でねがえる藩もでて幕府軍は敗退する。 翌七日、新政府は朝廷から慶喜追討令をうけ、十日には慶喜以下二十七名の官位を奪う。王政復古により旧幕領及び旧幕臣領は没収、それらの諸領は今後朝廷の支配に属するが、年貢等は当分の間旧制による、と布告する。

 幕臣の領地であったところには『官軍長州先鋒』の名前で村役あてに、

 「この度、朝敵征伐として官軍はせむかい候次第、上は御心をやすんじ奉り、下は百姓の難儀をすくふためにつき、おのおの安堵、家業相勤め、身分相応のご奉公をとけ御国恩にむくい奉るべく、これまで徳川からおおせつけられていたことは天朝から沙汰あるまでこれまで通りと安堵し、動揺なきよう」の布告がのこされている。

 幕府領だった三村あてに布告の記録はないが、村人の口にのぼっただろう。三村にとっては明和六年(一七六九)二月、幕府領になって以来の領主変更である。

岩田照彦
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