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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

柴田剛中(3)

柴田剛中(3)

 開港・開市延期交渉のため欧州を旅した剛中一行のみやげもののはなしである。懐中時計、宝石、外国の地図、旅行案内書のほか、好んでみやげにした1枚の肖像画がある。 描かれているのは、イタリア統一の英雄とされるガリバルディ。

 幕府高級官僚の剛中らは、欧州の都市をめぐるあいだ、欧州の奇跡としてガリバルディの話をきかされた。

 経済的に繁栄しながら政治のうえでは小国のあらそいがたえないイタリアは、フランス、スペイン、ドイツなど、周辺の国の餌食になっている。

 慶長八年(一六〇三)、群勇割拠する大名をおさえて幕府をひらいてから、国内は平和をたもってきた。その幕府も、二百年をこえて外圧に頭をなやませ、国内では尊皇攘夷をテコに長州、薩摩藩などの独善的な動きがめだつ。剛中らは、統一前のイタリアの姿に、幕府の現状をかさねあわせる。

 一八〇七年、ニースに生まれたガリバルディが、はじめて独立運動に参加するのは二五才のときである。「青年イタリア」に加盟、ジェノバで蜂起計画に失敗、死刑を宣告され、ブラジルにのがれる。失敗が、一段とかれの血の色をこくする。ウルグアイ共和国のためアルゼンチンと戦い、解放運動とゲリラ戦法を身につける。一八五九年、議会政治の育成や軍隊の改革などに努めるサルデーニャ王国のビクトル・エマヌエレ2世は、フランスの助けを得てオーストリアと開戦、ロンバルジアを併合すると、六〇年五月、両シチリア王国ブルボン朝にたいするシチリア島内の反乱援助を名目に、ガリバルディは千人の義勇兵を率いてジェノヴァからシチリアへ遠征する。

 圧倒的なブルボン軍を前に、敗色濃厚ななかガリバルディは叫ぶ。「イタリアの誕生か、死滅か!」六時間余りの死闘を制して勝利をおさめ、余勢をかってナポリを制圧する。かれは制した地域に君臨することなく、イタリア統一のため国王に南イタリアを献上する。

 千人の兵力で数倍の敵に勝利をおさめたガリバルディ、征服した国を、イタリア統一のために代償ももとめずさしだす愛国心。剛中ら幕府官僚は、ガリバルディのような戦士登場の期待をこめて、土産物のひとつにしたにちがいない。

 フランスのあと押しで統一したイタリアのいきさつは、万延元年(一八六〇)の遺米使節に目付としてアメリカにおもむき、のち、幕府権力の強化にあたってきた勘定奉行の小栗忠順に影響する。フランス公使の通訳で神父であるメルメ・カション(勝海舟は、日記に「妖僧」ときめつけている)が提言する徳川統一政権のもと全国郡県制への構想である。

 イタリア統一をよろこんだのもつかの間、ガリバルディは、共和国としての国のあり方が不満で二度にわたりローマ解放の兵をあげる。いずれも政府軍にはばまれ失敗におわる。剛中らは、政治家より革命運動や軍事活動に奔走するのが似合うガルバルディの、どこにほれて肖像画をもとめたのだろう。

 明治になり、そのガリバルディが、西郷隆盛とくらべて論じられている。

岩田照彦
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