神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

但馬牛のこと

但馬牛のこと

 日本人による屠殺場の経営を確認して、すき焼きに始まる牛肉の話を終えるつもりだったが、神戸ビーフと呼ばれる但馬牛のルーツにも触れておきたい。
 神戸牛が、実は但馬牛であることは書いたが、なぜ「但馬牛」だったのか。昭和四十六年三月、兵庫県農林部畜産課発行の「兵庫の和牛」から、但馬牛の成り立ちをみると、日本最古の史書とされる太安万呂が七一二年に選録した古事記、七二〇年に成立した日本書紀、七一三年から作成した各地の風土記などに、牛を利用してきた韓民族が、但馬の国に渡来してきたことが記されている。
 さらに、同年代にできたとされる続日本記には「但馬牛、耕転、轢用、食用に適す」と特記されており、当時、すでに地元民の暮らしのなかに根付いており、その後、優れた農耕牛また轢牛として、水田や陸上運搬に使われてきた。つまり,農作業などに牛を使い、食用にも供する大量の移民が、朝鮮半島から但馬・出雲地方にやってきた、というのだ。続日本紀には、出雲牛、農耕に適す、五島牛、農役に適す、但馬牛、耕転、轢用、食用に適した、とある。
 但馬牛は性質温順で耐久力に富み、体型・資質にも優れ、雄牛が轢牛として、雌牛は耕牛として高く評価され、近畿一円に顧客をもっていた。なかでも種牛としては、大城谷(現・美方郡美方町小代谷)、八木谷(現・養父郡関宮町)、大屋谷(現・養父郡大屋町)のものを第一としている。当時の但馬牛は、黒毛が多く、体高は三尺二寸内外だったようだ。
 天正年間(一五七三~一五九二)、但馬牛の取引は養父市場(現・養父郡養父町市場)が、集散地市場としての機能をはたしていた。他国への販売は同市場の牛商人によって行われ、他国商人との間では、交渉や紛争もあったらしい。嘉永二年(一八四九)、但馬の国、村岡藩主の山名氏は、領内の年貢とり立ての方法として子牛市を開催、紀伊・和泉・若狭・丹波・丹後の五か国の牛商らと交渉して、七味郡福岡村(現・村岡町福岡)、村岡町(現・村岡町)および和田村(現・村岡町和田)の三か所で雌子牛市を開設したのが村岡市場の起源という。この市場では、他領の牛の販売を禁止している。
 話はとぶが戦前、神戸ビーフは、飼育された但馬牛の雌、としていた。が、戦後、肉牛の主流が雌から去勢牛も含まれるようになり、いま、但馬牛を素牛として県内で飼育され、県内食肉センターに出荷されたもののうち、格付けが「上」以上のもの、とされている。
岩田照彦
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