神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

神田孝平 (三)

神田孝平 (三)

 兵庫県の北と南が海に面するようになったのも孝平の時代である。
 外国事務総督の肩書で東久世通禧が慶応四年一月一五日、兵庫へやってきたとき、兵庫島上町の諸問屋会所においたかり事務所「兵庫御役所」で、兵庫県がはじまる。事務の拠点はきめたものの、新政府が支配地にとりこめるのは、三村のように徳川家の領地、いわゆる天領とされた地域にかぎられる。
 一月一九日になると、諸問屋会所から兵庫切戸町の旧大阪町奉行兵庫勤番所へうつされ、軍隊のあるところが役所にふさわしいとして二十二日「兵庫鎮台」と改称する。
 それからわずか十日後、場所はそのままで名称が「兵庫裁判所」になる。代官の支配地を「宰判」といった長州藩の例にならったというから、この時期、長州の影響力のおおきさが推測できる。
 現在の神戸市中心部と点在する付録地で構成される第一次兵庫県がうまれたのは慶応四年五月二三日、ここに伊藤俊輔知事が誕生する。
 名前は「兵庫県」となっても、支配地は徳川天領の域をでない。兵庫と三村を核にするいまの神戸市のほか、西宮市の武庫川から西は龍野、北は播州に散らばる村々の集合体である。地続きの行政区域は兵庫と神戸のほかにない。
 明治四年七月十四日、廃藩置県の詔書がでる。「藩」という、永年親しんできた地盤を失う不安から、地元でどのような反対運動がおこるかわからない。新政府は、藩の消滅に対する反乱を予想して軍備をととのえる。が、軍の出番もなく、ことは円滑にはこぶ。
 生まれた第二次の兵庫県は、旧来の石高でみると十六万石である。その時、同時に現在の兵庫県のなかに、姫路県(一週間後に飾磨県と改称・六六万石)、豊岡県(四七万石)、名東県(阿波淡路・四四万石)がうまれている。
 県治条例により、知事を改称した「県令」として姫路県に土肥寛光、豊岡県に小松彰、名東県に井上高格が派遣され、兵庫県に送りこまれたのが神田孝平である。
 孝平は、赴任した翌明治五年九月、飾磨県域下にある加古、明石、美嚢の東播磨三郡十五万五千石の兵庫県編入を願いでる。
 請願は翌月却下されるが、世界に開かれた港をもつ県として、孝平はあまりにも狭すぎると考えていた。却下されたあと孝平は、他県との実質的なつながりをもとめて有馬街道の拡幅など、南北道の整備にとりかかる。
明治九年八月、廃藩置県の作業をおわって、政府は内務卿の大久保利通を中心に府県の整備をすすめる。兵庫県の再編について大久保は、元出石藩士で内務省地理局長の桜井勉から但馬一国に丹波二郡と飾磨を兵庫県にする日本海と開港場をもつ案に賛同する。
 豊岡県の参事であった田中光儀は幕臣として孝平と交流があり、道路の整備を通じて兵庫県にする構想を実らせた、という説もある。
 明治九年八月、孝平の執念から兵庫県はほぼ現在の境域を完成させた。
 翌九月、孝平がは元老院議官として兵庫を去る。
岩田照彦
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