神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

鈴蘭灯(当時の元町で商う大型店)

鈴蘭灯(当時の元町で商う大型店)

 前後するが、元町通に店を構える大型店の当時の状況を書いておきたい。
 元町で商う人達が、鈴蘭灯の導入を急いだひとつの理由にビル化した店舗、百貨店の出現があげられる。商品が飾られた店内へは、買わなくても自由にはいることができる。日が落ちても高層化された建物の中は、営業時間中であれば煌々とした明かりで迎え入れてくれ、雨でもぬれるわずらわしさもない。当時の庶民にとっては、夢の世界である。
 鈴蘭灯が設置された大正十五年、商店街が商いの脅威と感じた元町通における百貨店(当時はまだ〇〇呉服店の名前が多かった)の状況はどうだったのか。
 大正十四年、元町六丁目で地下も設けた地上五階建の小橋屋と元町デパートメントストアが開業した。この元町デパートについては紹介した通りだが、その建物を引き継いだ三越神戸分店が大正十五年七月六日、六丁目に開業している。地上六階のフロアに化粧品、食料品、内外雑貨、子供用品、玩具。文房具、呉服、和洋家具、電気器具、台所用品、食堂、さらには催し物会場までそなえた百貨店である。開業の日には芝居とキネマ展覧会に音楽団も出演した催し物で集客した。
 三越から少し東へ行くと天神さんへ入る角地にそごう神戸支店がある。明治三四年四月、相生町から七二・二坪の土地と建物を買い取り、市内有数の商業地になっていた元町へ進出してきたのだ。外商専門から、呉服店として店売りも始めている。さらに明治四四年二月、同神戸支店に隣接する土地・建物五五・九坪余を買収、さらに大正三年のはじめ三四・四坪強を買い取って店を拡張している。各界の名士や大会社を得意先に開拓してきたそごうは、大戦景気で飛躍的な業績から得た利益の一部を投入して支店うら手の土地三五・九坪を買収、既存の店舗に連続させて売り場をひろげ、そこに陳列ケースを置き、本格的な店売りを展開している。
 元町通をさらに東へ行くと、市街の中心になった四丁目に明治四一年、兵庫から移ってきた大丸が店を張っていた。通りの南側で、土井漬物店と金翠堂時計店跡九〇坪の敷地に木骨コンクリート造りの二階建を新築したものだ。正面の入り口左右にショウウインドウを設けるという目新しい設計で、一・二階ともすべて陳列方式。別に売り場台を設けて買い物の相談を受けるシステムを導入した。さらに大正十一年と十三年には敷地をひろげ、商品陳列数の増加をはかるとともに、増築した三階には、すしとしるこの小食堂も設けた。 呉服店の活躍は元町通に止まらなかった。明治三四年二月、元町通三丁目北側に出張所をだした高島屋は明治三七年南側へ移転、隣家に寄宿舎まで設けていたが大正十一年、大阪・長堀店開店を機に撤退したが、下山手六丁目に財界人が社交場としていた木造二階建の神港倶楽部で年二回の売り出しを行っている。大阪に店をもつ松坂屋も神港倶楽部を舞台に季節ごとに大売り出しを行い神戸の得意先を集めていた。
 元町の大丸、そごう、三越、小橋屋四社に白木屋(新開地)、吉田屋(有馬道)を入れた六社が毎月定例の協議会を開いていた。(大丸二五〇年史)
岩田照彦
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