神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

神戸牛

神戸牛

 いまや世界にその名を知られるようになって久しい「神戸牛」について書く。
 神戸より一足早く開港したのは横浜である。横浜に住み外国人は、輸入の牛肉で食卓をまかなってきた。人口の増加と、一部日本人にも西洋人に見習って牛肉を食す者もあらわれ、品薄が状態化し、不便を感じていたようだ。
 関東では、農耕に使うのは馬が多く、牛を見かけることは少ない。供給もままならない横浜の状況に目を付けたのが、神戸に寄港した外国船の乗組員だ。関東では馬だが、神戸をはじめ関西地方では牛がその役目をはたしている。神戸なら、牛はどこでも見かける家畜である。
 開港前、神戸では公に外国人と取引はできない。牛はもちろん、獣類の肉を外国人に売る者は、長州兵に捕縛されるという噂もある。容易にとりくめる商いではなかったが、商いとなれば、素人も含め、博労もいたようだ。その牛に目をつけ、船のデッキに三十~四十頭を積み込んで横浜へ運んだ。
 神戸の牛は、横浜で、一躍人気になった。美味しいのである。神戸では、但馬牛を素牛とする三田の肥牛である。その牛が「美味なりとて好評を博せることあり(略)これ神戸牛の名の喧伝せる始め」と、神戸市史は書いている。
 旺盛な需要にこたえるため、危険をいとわず、馬や牛の仲買人が売買に応じていたようだ。売買の舞台は、和田岬の松林で、買い取った牛を松の木を利用して屠殺、転売した。
 神戸開港後、この商いに乗ったのが、走水村あたりの農民だったという岸田伊之助だ。「祖父が牛肉を扱い出したのは明治四年ごろのことらしいが、外人に飼っていた役牛を分けてくれと頼まれ、接触をもちはじめたらしい。頼まれて牛を世話し、身ぶり手まねで取引し、外国船へ牛肉を納めだした」と、大井肉店三代目当主伊兵衛さんが「兵庫百年」の中で語っている。牛を買い集めるのは近在の農家、庭先での現金取引になる。遅くなって、畑小屋に潜り込むこともあった、という。
 また守谷類蔵は、横浜在住の英国人と特約を結び、英国政府から、艦船用牛取扱いの命をうけて、神戸牛の流通にかかわっている。
岩田照彦
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