神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

写真の話(3)

写真の話(3)

 二〇一四年六月に刊行された梅本貞雄著「写真師たちの幕末維新」に、明治をはじめ、地方の高名写真師の名前をあげている。東京には横山松三郎・埋橋蓮二・稲垣弥三郎・清水東谷・北庭築波・森山浄夢などいたが、内田九一の盛名には到底対抗できなかった、という。新潟には、和田久四郎、北海道に田本研造、山形の菊池新学、福岡に古川俊平、下田の船田万太夫、京都に堀与兵衛・堀内重信、大阪には吉川治兵衛・葛城思風・若林耕化・佐野景明・田村計美。東京に七名、大阪が五名、京都二名までが複数以上で、新潟、北海道、山形、福岡、下田はすべてひとり。神戸には、市田左右太・横田朴斎・上野幸馬・平村徳兵衛の四名の名前をあげている。神戸は、東京・大阪についで、写真の盛んな土地柄だった。
 「こうべ元町新聞」には、かつて元町商店街で、写真機などを販売していた安井カメラの安井裕二郎氏の記事を紹介する。
 「西国街道筋の神戸町役場(今の三丁目にあった)に、兵庫県の「外国事務局」が設置されると、出仕した若き伊藤俊輔(博文)が住んだ橋本藤左衛門(二つ茶屋村名主)の花隈別邸(後の吟松亭)に出入りしたかの写真師・森田来三が、伊藤がかつての密航先イギリスから持ち帰った写真機を譲り受け、一八六九(明治二)年に西本町(今の五丁目界隈の通称)に写場を開設、居留地隣接の鯉川筋でも、大阪から来た写真師・横田朴齋が写場を開いたのが「元町最初の写真館」。新設された福原遊郭(今のハーバーランドにあった旧福原遊郭)では、上野幸馬が、天幕張りの写場を開き、遊客、遊女を上客にした写真館は大繁盛」した、とある。
 「明治三年には、京で二年ほど営業してきた市田左右太が、妻子を残し、元町通三丁目にやってきて、掘立小屋の写場を開いた。が、商売になる客は外国人。市田は、大きな暗箱を人夫にかつがせ、造成中の居留地を、写真営業に歩き回ったという。同じ年、外国人から譲り受けた写真機で、平村徳兵衛も創業、明治九年、六丁目の小路に移転した平村写真館は、西南戦争時には神戸に集まった官軍兵士が、最後の姿をうつしておこうと、早朝から長蛇の列をつくる繁盛ぶりだった」、という。
 なお、写真材料商には、織田長武・青田繁太郎・柳原三男・吉田由に赤壁薬舗の名前が挙げられている。
岩田照彦
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