神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

元町の教育事情(17)

元町の教育事情(17)

 洋学伝習所
 間人寺子屋の縁で、元町に生まれた「学校」の話をつづけたい。
 神戸開港で、外国人との取引を商いにするひともでてくる。先に開港した横浜では、手真似による意思表示で契約したことで、違約金をとられるなど困ったことのあることは知られていた。明治元年八月、県は官吏に外国を身に着けさせるため、早くも洋学傳習所を開設した。校舎は、鳥取藩が藩士教育のため使っていた神戸村(海岸通西ノ町)の校舎が兵庫裁判所へ寄付されたものを利用した。
 教師には、東京から月俸百両で箕作貞一郎を招いている。九月には、掛官に伊藤十之、書籍掛に小寺留四郎をおき、学則をさだめている。
 まず入所した生徒の学力を四等にわけた。直接、教師から教えられるのは第一等の生徒だけで、それ以下の生徒は、一等の生徒から学ぶことになる。どのような試験をしたのかあきらかでないが、生徒が官吏に限定したからできたことであろう。
 授業は午前九時から十一時まで、午後は二時から四時までとし、寄宿舎も準備して、起臥の時間や、礼譲についての規定も定めている。日曜は休日とした。
 官吏に洋学傳習所ができたことを知り、民間人もたよりにした。書類を持ち込んでも、官吏は公務にいそがしく対応は十分ではなかったようだ。県は、民間からの入学希望にも応えようと坂本村に新学舎の建設をきめ、翌二年正月、新学舎とともにアメリカ人教師のWLビキロウのほか、大島益三郎(軍務官訳生)、片寄海造(鳥取藩士)、山田 民(杵築藩士)を英語教授に、吉川敬周(大垣藩士)をフランス語教授にむかえて体制をととのえるが、官吏を除くと生徒は一〇余人にすぎなかったという。
 明治二年一二月、大阪洋学校ができると教師がそっくり引き抜かれて休校に追い込まれる。
 県が、洋学校の再建に取り組んだのは明治四年三月である。松屋町にあった官舎を校舎にあて、掛二名と訳官一三名に訓導を兼ねさせ学校を再開した。しかし、入学希望者は少なかったようで、広く入学を働きかけるほか、訳官の兼務を解き、教師陣も整備したものの、資金的にも苦心を重ね明治五年十月、神戸洋学校は、神田兵衛門らの発起で兵庫に設立されていた明親館に吸収されておわる。
岩田照彦
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