神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

「みち」の構造

「みち」の構造

 前回まで、街道のはなしをかいてきた。そのながれにのって、「みち」そのものについて書きすすめる。
 神戸・二つ茶屋・走水の三村を、なだらかなカーブをえがきながら東西につらぬく「みち」は、「国道」として大切にされてきた。しかし、きれいに舗装された商店街の「みち」も、開港三〇年史が紹介する開港のころは、

   海浜の一小村落隨て縦横道路乱雑にしてすこぶる狭隘唯一西国への往還幅二間
   余の道路一のみ、(中略)両側人家の檐下には、単に土地を低めたるままなる一条
   の溝ありて、然も破損に任せたれば、降雨ひとたび至れば、泥水たちまち往来に溢
   流す

とある。「みち」というより、荒れほうだいの路地という風情だ。
 幅二間余、というから三・六メートルあまりの道で、両側に水をながすための溝としてくぼみをつくっている。「余」の文字をひろく解釈しても、側溝をいれて三間、五・四メートルの範囲である。
 そのころの「道」にたいする基準は見あたらないが、戦国時代の末期、関東一円を支配した徳川家康は、道中奉行をすえ交通路の整備にかかる。東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の「みち」づくりの基本は道幅を五間とし、五間四方の一里塚を造れ、と指示している。ところによって道幅はちがうが、おもなみちの幅は、三間から五間幅であった。
 幅をきめれば「みち」ができると考えていた時代だから、その構造までふれたものはない。が、文政十年(一八二七)二月、交通のはげしい神奈川宿内での工事報告によると、二間幅に一尺(約三〇センチ)の盛り土をおこない、そのうえに幅九尺(約二・七メートル)厚さ二寸(約六センチ)にわたり砂利を敷いて均す、とある。その場所にあわせた対応はべつにして、これが「みち」づくりの基本的な工法であったのだろう。
 西国街道の場合、開港前のこの地では、政治の中心が関東にあり、大阪と九州の間には船便も利用できることから、「みち」への手入れは怠たりがちになったのかもしれない。
 平成十五年(二〇〇三)、震災後、傷んだ舗道路盤内の設備修復のため、元町通三丁目で道路修理のとき、鋪道の南はしに、道をかたどるための石材が点在しているのが確認された。みぞを掘って水をながすだけの窪みから、「みち」として整備されていたことがわかる。安永五年(一七七六)、オランダのキャピタンに随行した医師のブンベルグが、長崎から江戸へむかう「みち」について書きのこしている。

   この国のどこでも道路は非常によく手が入っていて、道幅も広く排水のために溝が
   ついている。ヨーロッパのどの国においても、日本のように愉快かつ容易に旅行す
   ることのないことは断言できる

 「みち」としての面目をたもつため、どんな手入れをしていたのだろう。
岩田照彦
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