神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

元町の教育事情(5)

元町の教育事情(5)

 人間平等の前に、間人寺子屋が定めた訓育のための掟書五カ条も明快なものだった。
 親の言い付けに背くべからず、にはじまり喧嘩口論を慎むべき事、偽りをいうべからざる事、生徒の交りを厚くすべし、勝負事一切なすべからず。
 格別な思い入れは、どこにもみられない。江戸から地方の寺子屋まで、広くゆきわたっていた掟書を、間人寺子屋でもそのまま使ったにすぎない。
 寺子屋を開いた場所により教えも変わる。武士、農家、町人それぞれにふさわしい教科を教えるが、間人寺子屋ができた当時、先進地は兵庫だった。商いの盛んな兵庫では、商業的な教育を行っていたが、二つ茶屋村では、はっきりした性格をもつまでになっていない。算術を重視するでなく、商業的なものに中心にもせず、まして百姓のことを教える教科書を採用した気配もない。使っていた教科書の性格からみると、農商の間にあって間人寺子屋がもっとも重きをおいたのは生きて行く上での教えだったろう。
 間人寺子屋の話は、大正三年十一月七日、編者識すとある「神戸区教育沿革史」によって書いているが、同書にある間人寺子屋教育方針の項に、
 「しかし最も注意に値するのは、忠君愛国的箇条の欠如せる異なり。徳川封建制三〇〇年の太平は、外的の襲来なく、国内の攻略なきこと、皇室中心的観念仮設敵国敵愾心の涵養等を現実痛切に感覚せざりしに因るものか」とある。
 何とも勇ましい表現だが、凡例をまとめた編者は、校了日を大正三年十一月七日とした後に「青島陥落の公報を聞きつつ」と書き添えている。軍靴の足音を聞く時代に入っていたのである。
 編者が徳川三〇〇年の太平という通り、間人寺子屋草創のころ、幕府の終わり近くといいながらも泰平を謳歌していた。初代駐日公使を務めたハリスは安政四年(一八五七)「質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」といい、また幕府から鉱山技師としてやってきたパンペリーは文久二年(一八六二)「幕府は専横的封建主義の最たるものと呼ぶことができる。しかし同時に、かつて他のどんな国民も日本人ほど、封建的専横的な政府の下で幸福に生活し繁栄したところはないだろう」と書き残している。自由と自立を保証された社会で自然環境と人々相互の交わりのある、貧乏人はいても貧しい人も少なく簡素ななかに喜びを見出す時代だった。
 間人寺子屋でも、掟書五カ条に磨きをかけるためだろう。修身訓話を暗誦させ、謡曲を授け、人としての品位高尚にと行儀作法を躾け、不具者も差別せず受け入れた。
岩田照彦
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