神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

洋服の話(4)

洋服の話(4)

洋服への憧れ
 洋服商ができたからといって、洋服の着用が庶民の域にまでひろがったわけではない。
 神戸市史によると、明治七・八年の頃、衣服には熊谷紬流行せしが、十年頃には上流中流を通じて本八丈用いられ、唐縮緬またはじめて輸入せられたり、とある。文久二年、服装の簡略化が図られたとき、羽織はかまは士分者の事務服とされ、明治四年には平民にも許可されている。政府の目も、庶民の衣服は、まだ和服に基準をおく時代だった。
 神戸の状況は神戸市史が語る通りだが、東京ではどうだったのか。明治四年五月の「新聞雑誌」第二号は、東京の街で見かけた衣服をあげている。装束 ・ 狩衣 ・ 直垂 ・ 鎧直垂 ・ 白丁 ・ 上下 ・ 軍服 ・ 非常服 ・ 西洋服 ・ 羽織はかま ・ 平服 ・被布(ひふ) ・ 雨羽織 ・ 医者の十得(じっとく) ・ 袈裟衣 ・ 腹掛股引 ・トンビ ・ フランケットの十八種類。人の行き来が多い街かどにたっての観察だろうか、さながら百花繚乱のおもむきである。
 同年十月発行の「新聞雑誌」十八号は、横浜五十二番ロースマンド社の東京茅場町柳屋店開店広告に、街で見る西洋服スタイルの現状を紹介する。「世間の洋服、頭にプロシャの帽子を冠り、足にフランスの沓をはき、筒袖にイギリス海軍の装、股引きはアメリカ陸軍の礼服、婦人の襦袢は膚に纏いて狭く、大男の合羽は脛を過ぎて長し、あたかも日本人の台に西洋諸国はぎ分けの鍍金せるが如し」。新店舗開店広告だから、古着屋や袋物師が変化した洋服仕立屋のせいとしているが、洋服へのあこがれがみてとれる。
 洋服の着用を妨げたのは価格だった。明治二十年ごろ、仕立て上がりの背広は十八円、モーニングは二十円だったという。明治十一年当時、伊藤博文など月給千円の大臣クラスはともかく、下級官吏で月給十二円、当時人気の新聞記者が十五円から五十円、分割払いを利用しても、洋服を新調できるのは、このあたりまで収入のある人に限られた。
 明治十二年、第一回兵庫県議会に集まった七十二議員のうち、洋服姿は神戸選出の神田兵衛門と藤田積中の二人だけだった。明治十六年十一月、兵庫戸場町役場で、服装統一が議論されたが、洋服着用の意見はなく、すんなりと羽織袴にきまっている。明治十九年四月、小学校教員は洋服着用と決まり、そのため各学校は、月賦返済の法を定めたという。
岩田照彦
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