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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

伊藤俊介(博文)

伊藤俊介(博文)

  新政府として、はじめて外国公使との交渉にあたった東久世が横浜へ去ったあと、三村を中心にする神戸の行政を担当するのは伊藤俊介である。
 伊藤には、先をよみとく臭覚のようなものがそなわっていたようだ。
 長州の百姓の家にうまれた。徳川幕府の時代、百姓から武士に転ずることはできない。生まれによって、生涯の身分がきまる。家族ぐるみで、萩の足軽、伊藤直右衛門の養子になるが、すでに、伊藤の身についている将来をみる臭覚を、父の十蔵も感じとっていたのかもしれない。
 黒船がやってきたことも、伊藤には幸している。長州藩が、江戸湾の警備を命ぜられ、伊藤は江戸へのぼる。江戸で郷里の仲間と知りあった縁は、長州でいかされる。
 松下村塾への入門である。入門はしたものの、学問の世界にひたる塾に、伊藤はなじまない。松下村塾の吉田松陰も、学問に殉じる男とはみなかった。根っからの政治家とみるほどの評価しかしていない。伊藤ものちに、松陰の弟子のようにいわれているが、それは間違いで、先生の教えも受けず、たびたび先生に会ったこともない、といっている。
 伊藤にとっての松下村塾は、攘夷思想の持ち主を仲間にもつことになる。木戸孝光につきそって江戸や京都へ出没、攘夷運動に奔走する。江戸で建築中のイギリス公使館を焼き打ちにした下手人のひとりでもある。国を滅ぼす元凶を幕府として、打倒に邁進した。
 その伊藤が、文久3年、井上聞多に誘われ英国へ留学する。幕府が、外国への渡航を認めていない時代、自らの手で焼き打ちしたイギリス公使館の本国へ行くのである。口では、攘夷を叫びながら、時代の変化をするどく嗅ぎとっていた。
 攘夷にこりかたまった長州が、幕府の本意を理解せず、外国船を攻撃したことの報復に、連合艦隊が長州を攻撃する、このニュースをイギリスで知った伊藤は、留学の目的もはたさず急遽、帰国する。イギリスという国をみて、攘夷などもってのほかであることを体感した伊藤には自然な行動であったにしても、政治向にたいする鋭い臭覚が、かれを機敏にうごかした。
 神戸に起こった備前兵による外国人の傷害事件でも、外国事務取調係の東久世に、いちはやく事件を知らせ、外国に王政復古を宣言、事件を解決させたのも伊藤である。
 明治元年五月二七日、兵庫裁判所を兵庫県庁と改め、初代兵庫県知事に二七歳の伊藤が就任した。九月一八日、兵庫切戸町の庁舎を坂本村に移して、盛大な開庁式をあげる。内外の事務を一括して県知事の掌中におさめ、その分掌を内務、外務にわけ、内務をさらに郡政、市政にわけ県庁としての組織を整備する。
 貿易の振興が、国家隆盛の唯一の手段とかんがえる伊藤は、工事なかばの居留地工事を再開させる一方、すでにはじまった貿易を発展させるため、第二の運上所をひらき、英学校を開設、実業教育に力をいれ、宇治野村に病院の建築もはじめる。イギリス社会を見分した政治家として、伊藤が神戸ではじめた事業の数々である。
 のち初代の内閣総理大臣の座についたのも、伊藤博文である。
岩田照彦
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