神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

シェアしてね!

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

写真の話(1)

写真の話(1)

 元町商店街には、開港と共に、新しい店が開かれた。そのひとつに、写真店がある。
 写真機が、日本へやってきたのは一八四〇(天保十一)年とされる。医薬品やラシャ、象牙などの商品とともに、高価な幕府への献上物を積んで長崎港にやってきたオランダ船、コルネリヌエンユールローテ号だ。写真機械一式は、積み荷としてではなく、乗組員の私物として目録に記載されていた。
 それは、ダゲレオタイプといわれた銀板写真機械一式で、フランス人のタゲールが考案、銀メッキをかけた銅版に像を食塩水で直接定着させる方式で、三七年に完成したもの。 どのような経緯か明らかでないが、長崎の理化学研究者である上野俊之丞常足が、その機械を入手した、というのである。
 俊之丞は一七九〇(寛政二)年、長崎銀屋町に生まれ、長崎奉行所直属の御用時計師役を務めた。家庭でもオランダ語で用を足すほどで、シーボルトをはじめ、多くの外国人から理化学の指導を受けている。俊之丞はまた、絵事を好み、西洋画法も体得していた。化学と西洋絵画が、対象物をそのまま写し取る写真への、かぎりない好奇心をかきたてたのだろう。
 何らかのルートで、写真というものの発明を聞きかじっていたとしても、奉行所直属の時計師であり、オランダ語が得意だったとはいえ、ローテ号にその現物があることを、どうして知ったのか。知り合いの乗組員がいたのか、それとも、長崎へ行けば、高値で売れる、という持ち込み者の算段にのったのか。なぞの多い流通経路だが、ともかく、俊之丞の手に入ったことは、日本の写真界のとって大きな福音をもたらしたことにまちがいない。
 俊之丞が、写真機の取り扱い方まで教えられた、とは思えない。機械を前に、映像を目にするまで、悪戦苦闘の日々を重ねたのではないだろうか。
 翌四十一(天保十二)年五月、俊之丞は西洋機器、薬物製造の委嘱を受け、海路、薩摩の国へ入った六月、島津斉彬を撮影した。俊之丞は、自分の姿に対面する斉彬の表情を、どのような気持ちで見ていたのだろう。
 日本ではじめての撮影、と記録されているが、写真の現物は現存しない。
岩田照彦
PCサイトを見る スマホサイトへ戻る