神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

元町の教育事情(18)

元町の教育事情(18)

 洋学の学校
 小学校の開設で、同年代の児童を対象にした小学校授業を内容とする塾や学校の開設は禁じられたが、小学校年齢以上の児童を教える私学の数は、市内に三十近くあった。
 明治十二年五月、元町一丁目に洋童学舎ができている。習字が目的で、教える文字は源平藤橘、商売往来などだったというから、年長生徒のための寺子屋といってよい。そこでは百名にのぼる生徒をあつめていた。明治十九年三月には、元町三丁目に漢学を教える青雲義塾の名前も見える。
 やはり多かったのは、外国人に対応しようとした語学校である。
 明治十一年、官吏のための伝習所は姿を消したが、県はまた元町三丁目六十九番屋敷に、修業年限三年の英語学校設立をきめ、翌十二年一月に開校した。さらに居留地やその周辺に増えている支那人の言葉を知ることも必要と、支那語学校も開いている。欧米人の窓口になって商売を取り仕切る支那語理解への必要性も意識していたのだろうか。初めから修業年限を定めていることから、一般市民のために開かれた学校である。その後、ふたつの学校は合併して下山手四丁目に移った。
 同じころの設立と思われるが、三宮乾行、高山時蔵、梅木忠朴らが発起人になり元町四丁目に共立英語研究会を設立する。のち校主の佐畑信之と村上俊吉ら運営委員は、有志者から年に五十銭の補助を集め、すでに設置した共立英語研究会から神戸英語学会組織にし、元町四丁目に英語学校として開校した。同校は明治二十一年、坂本村に学舎を移すが、二十二年になると維持困難になり廃校に追い込まれる。その後、キリスト教青年会が夜学校とし同校を運営するが、明治二十三年には姿を消した。
 明治十七年には元町二丁目に獨英二国語を教える擇善家塾が開かれ、明治十八年には元町五丁目極楽寺境内に関西獨英語学校を開く者もあった。
岩田照彦
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