神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

初代鈴蘭灯 弾丸に

初代鈴蘭灯 弾丸に

 大正十五年、神戸市民に「元ぶら」の楽しみをもたらした鋼鉄製の鈴蘭灯は、昭和十七年、その姿を消すことになる。
 中国での戦線がながびくなか、昭和十四年二月、商工省は鉄製不急品の回収をはじめていた。軍需物資の原料枯渇は、国家存亡の要だった。昭和十六年十二月八日、英米へ開戦を布告、資源を求めて南方に進軍した部隊は一月にマニラを占領、二月にはシンガポールを陥落、翌三月ビルマのラングーン占領と、華々しい戦果がつづく。
 昭和十七年一月、小学校にあった二宮金二郎の銅像がなくなった。国所有の銅鉄製品だけでは追いつかず同年四月、政府は金属類回収強化のため強制譲渡命令を発動する。ホテルや料亭のシャンデリアや茶器、火鉢などをはじめ看板、門柱、塀、柵のほか神社や仏閣の宗教用具まで目を光らせた。八月、兵庫県は金属回収の臨検隊を出動、譲渡申し込みをして供出せず、そのまま使用しているのを発見した場合は国家総動員法により罰する方針まで打ち出した。
  鈴蘭灯の供出は「弾丸になるこの鉄銅 あすから指定物件金属の回収」を見出しにした昭和十七年九月一日付神戸新聞である。「市内の鈴蘭灯も大体本月中に供出するが、商業組合法によらず任意組合で建設している鈴蘭灯もあり、これらは二日総会を開いて供出を協議する」とある。
 鈴蘭灯供出命令がかなり遅い時期にでてきたのは、隠すことはできず、いつでも供出できると考えたのか、銅鉄純度の点からか、それとも回収に手がかかるためだったのか。
img_120601.png 元町では当時、登録組合として「元町一二会商業組合」は確認できるが、他丁の組合名は見当たらない。が、鈴蘭灯が完成した当時の大正十五年十一月五日付け神戸又新日報は「明治三十四年組合組織に」なったとしており、各丁それぞれに形成されていた任意団体の中で、供出への対応は、戦時体制の前に議論もなく決まったに違いない。完成してすでに十六年余が経過しており、建設時の費用負担はすでに完済されていた。
 米英撃滅の弾丸となり、戦車となり、軍艦にといわれ、 "欲しがりません勝つまでは" の標語が氾濫するなか、鈴蘭灯には夜の明かりもない。鈴蘭灯は、単に街の飾り物であり、国家総動員法に違反してまで存続を求めることはできなかった。
 県では四トン未満の物品は指定した集積場へ持参させた。持参できない物は、回収工作班やトラック、人夫のほか各地区の青少年団回収班勤労奉仕隊の協力で実施する、とした。 鈴蘭灯は、トラックに乗せられていったのか、それとも荷馬車に積み込まれていったのか、それ以外の方法によるものだったのか。当時の方々に問い合わせてみたが、軒並み元町を離れた所へ住まいを変えられており、鈴蘭灯撤去工事を目撃したひとの証言を得ることはできなかった。鈴蘭灯は、十六年余の輝きを終え、戦争遂行のため、街の人に見送られることなく元町商店街を後にする。
 初代鈴蘭灯が元町から消えた昭和十七年、日本の銑鉄生産高は四百二十五万六千トンという戦前としては日本最高の生産高を記録した。
岩田照彦
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