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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

大西座 (二)

大西座 (二)

 今回は、「大西座」という名前について、である。
 劇場を建てた事業主が「大西」と名乗ったというのであればそれまでだが、前回みたように、布引の顔役「重吉」とはちがって、「大西」が、そのまま「重吉」に相当する名前とはおもえない。すべての町民に姓が許されたのは明治三年の平民苗字許可令がでてからである。それ以前、町民でも庄屋や名主など、幕府から認められた者でなければ苗字はない。町民は、役所へ届けをだすときでも、すべて「音吉」の世界なのである。いまも、「大西」というのは苗字にこそあれ、名前としてつかっている例にはお目にかかれない。
 明治三年、苗字をつけることを許可されても、ほとんどのひとは長年の習慣から容易に苗字をつけることはしなかった。三百年ものあいだ、苗字をもつことを禁じられてきた直後のことである。不満をもつ士族もおおい。あわててつけようものなら、生意気を理由にどんな災難にあうかわかったものではない。戸籍台帳をととのえて租税をおさめるものを確認するための政府のおもわくは、町民には無縁のことなのである。
 平民も必ず苗字をつける義務令をだしたのはそれから五年もあとの明治八年である。この時期、「大西」と名乗る事業主が存在したとはかんがえにくい。
 「大西」の正体はなにか。
 当時、江戸には幕府が公認する格式と権威をそなえた芝居小屋に中村座、市村座、森田座の三座があった。三座の興行権をもつものを座元という。座元が劇場主を兼ねる。興業の費用を出資者にあおぐことはあるが、興行権と劇場は世襲制度のなかで座元が握っている。この三座がなんらかの事情で興業できないときは、ダミーともいうべき控櫓が興業する。中村座には都座、市村座には桐座、森田座には河原崎座である。役者もふくめ興業は、三位一体になったそれぞれの座でしかできない制度ができあがっていた。
 上方(京都・大阪)では、興行権をもつのが名代である。興業したい役者と結び、公演する小屋をきめる。役者の座元と劇場の所有者、それに興業権者の三者連名で公演の内容を奉行所へとどけでる。江戸が、一座の権限と責任ですべて賄うのにたいして、上方では権限が三つに分散される。
 興業のためのすべてを差配する江戸とちがって、上方の劇場主は、その名前をきめるについて座元や興業権者に配慮することはない。どの座元にも利用してもらうためには、むしろ単純なものの方がよい。事実、上方では、京都四条通りの北にあるから北側の芝居、南にあるから南側の芝居で南座になり、大阪の道頓堀では、中の芝居、角の芝居、いちばん西で公演する芝居を大西の芝居といった。
 歌舞伎年表(岩波書店刊)によると、慶応元年三月、大西・筑後芝居として興業の記録はあるが、翌年から筑後芝居だけで、大西の名前は消え、明治三年正月の興業に「神戸芝居」が登場する。大阪で大西芝居の経験を積んだ興業主が、明治元年、元町六丁目の、開港した神戸のもっとも繁華な地を取得して、大阪の西を代表する小屋にふさわしく明治三年、名ある芸人を擁してはなばなしく神戸芝居を旗揚げしたのではないか。
 
岩田照彦
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