神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

広くならなかった街道

広くならなかった街道

 明治四年から九年まで、開港後のまちづくりと行政組織の確立に努めたのは、兵庫県令(知事)神田孝平である。神田は、職を去るにあたり、「開港以来、俄然繁盛輻湊の区となり西国往還の大路を除くの外、西北方の通路なきを苦しむ」といい「道路修築は人民の世上へ対せる義務の最も重き者の一なり、故に之を督促するもまた他事に比すれば一層の厳を加え区費を用ふるの事第一要事とす」の言葉を残している。
 急激な人口の増加と物流量の増加にもかかわらず、東西をつなぐ西国街道は、幅二間余のままだった。
 予算には、限度がある。政府は明治四年、料金収入の権利をあたえ、民間に道路整備を認めた。有料道路だ。明治八年、小田原市板橋から箱根町まで四・一キロが日本で初めての有料道路として開通している。
 政府は、外国で体感した鉄道敷設に目をむけていた事情もある。鉄道の輸送能力とスピードは、道路とは比較にならない。一方、まちの中心市街の西国街道は、またみちのもつ性格を変えていた。
 居留地には、外国人がまちをつくりだしている。居留地に接する街道筋は、日常の暮らしを支える商いの場だ。居留地を去る人の不要な家財が街道筋に店を生み、客を呼ぶ。街道に面した家屋は、商いの場を求める人達で、日ごとにその表情を変えていく。
 街道筋を一歩はなれると「道路工事のため家屋を破壊する地あり、市街新たに成りて、屋舎の造営中なる地あり、土をけずり、砂をいれてならし、木を割り、石を敷く、到るところかくの如し」という状況だ。
 商いの場所である街道筋まで工事の手を入れる時期ではなかった、ともいえる。
 道の拡幅には、多額の工事費とともに、一時的にせよ街道筋の商機能停止への危惧が、道路拡幅事業にをひかえさせた理由ではないか。
 街道の機能を失ったみちにかわり、東西の動脈をうけとめたのは栄町通である。
 海岸通が完成した翌明治五年七月、兵庫県は「将来の頻繁なる交通運輸の必要に備えんが為には神戸より兵庫に通ずる大道路の必要なり」として海岸通と西国往還との間に設定し九月実測に着手した。道路延長五六三間、側溝をふくめ幅十間の計画で、南北三十八間にのぼる一万六千九百余坪を買収、家の持ち主には坪当たり七両の移転料を、借家人には手当二十両を払い、建物を取り払わせた。神戸町の大塚良助が、石垣築造費を含め総額十七万七千両で請け負い明治六年着工、十一月、栄町通が完成した。
 その間、西国街道筋には長さ二間幅三間の石橋が架設されている。
岩田照彦
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