神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

「道」についての余談(1)

「道」についての余談(1)

 元町商店街の草創期をたずねる作業をはじめて、気になることがあった。
元町駅西改札口をでて山手に目をやると、10メートルもありそうな壁が立ちはだかっている。まるで、地下の駅のようだ。路上へでるには、JRの高架と壁の間の透き間に用意された37段もある階段を上らなければならない。途中に、一息つくための踊り場まで設けられた階段てある。
 階段を上がりきると、サンセット通りだ。そこは花隈城の石垣跡から東に登り、元町駅東口へ向かって下る坂の頂上にあたる、サンセット通りのもっとも高いところである。その高さは、JR元町駅の上りプラットフォームが、ほぼ同じ目線になる位置である。
 元町駅西口の南側の道路は、JRの線路と平行に車道4車線の神戸明石線である。4車線の道路を左に見ながら元町高架通沿いの道を西に向かうと、元町通三丁目の中央付近に 4車線をまたいでわたるための横断歩道が、信号機とともに用意されている。ここでは、4車線をまたぐ横断歩道の中間に、2車線づつ分割する形で人の横断のため10段の階段がある。信号完備の階段のある横断歩道である。横断中に信号が変わり、4車線の途中にある階段で、信号の変わるのを待つ人の姿を見かけたりする珍しい横断歩道だ。
 JR元町駅西口付近に中心線をもつ山を削り取って、JRから人の流れまで、東西の交通路を確保した遺跡、といってよい。
 一六七三年(寛文十三年)の摂津名所図を見ると、該当すると思われる地域に、さほど高くはない三つの山が重なるように連なって海まで達している。もっとも海に近く描かれた山が、JR元町駅の構造に影響をおよぼしたのではないか、と思われる。絵図であり、実際との関係は明らかではないが、地形から推すと、神戸明石線のさらに南を東西に走る元町商店街のある道は、山沿いの波打ち際にそっていたにちがいない。
 また、角川版日本地名大辞典兵庫県版「北野」の項に「小野の北の傾斜地というのが地名の由来といわれ(西摂大観)神戸7野のひとつ。西国街道ができるまでの山陽道はこの付近を通っており、目印として3本の松があり北野の3本松として有名であった」とある。 北野の3本松は、不動坂と北野通が交差する場所にあり、1本だけ根っこが残され不動明王像を祭っている。北野通を西に行けば外国倶楽部に突き当たる。そこから一気に南へ下る道がトアロード、南へ下らず山本道をさらに西へ向かうこともできる。この道が「西国街道ができるまでの山陽道」というのだろうか。
 また神戸市史・本編各説には、「徳川幕府開港に先立ち西国街道つけかえの議を決し、大阪より武庫郡住吉村までは旧街道によりしも、同村より西北におれ、神戸、兵庫の背後を迂回して明石大蔵谷にで、また西国街道に合わせしめることとし、その土工なり宿駅の改正も行われたが、明治元年3月、かかる大迂回の必要がなくなり、兵庫裁判所は更に路線を変更し、神戸町のみを迂回する新道を設け、兵庫相生町より宇治川岸を溯り、再筋にいで、宇治野、花隈、城ケ口、北野を過ぎて生田川に達することとし」た、とある。
 西国街道を迂回させるために活用したのが山陽道ともうけとれ、興味深い。
岩田照彦
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