神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

雑居地の警備

雑居地の警備

 三村にも外国人が住めるとしたが、安全を保障しなければならない。

攘夷を名目に、幕府と対峙してきた薩摩であり長州藩である。

外国と抗戦したことのある両藩は、幕府から権力をとりあげたとたん、外国人を保護する立場を宣言する。外国人を殺害したり、不心得のことを禁ずる、太政官名で高札をかかげたが、庶民にどこまで衆知できたか。

 村の目の前で、備前兵が英国人をきりつけた事件は、記憶にあたらしい。英米兵の攻撃をうけて備前兵は逃れるが、そのときの村の混乱が、にがにがしい事件として身にしみついている。

外国人の身の安全だけではない。外国人が居留できることで、雑居地は外国になる。

 三村へもちこんだ商品を、それ以外の土地へ持ちだすのにも目を光らせなけれならない。

 三村へ通ずる道のすべての入口に十七カ所の柵門をもうけ、警備に長州兵をおく。四百名にのぼる長州兵が寺院や民家に分宿し、不審な人と物の出入りに目を光らせる態勢をととのえた。

特に、厳重な警備態勢をしいたのは宇治川に面してひろがる遊郭地前面の福原前、二つ茶屋村、生田鳥居前の三カ所である。

 いずれも人のでいりが多い。遊郭へのでいりは、人の多さにくわえて、遊女をとおしてものの行きかう懸念もある。二つ茶屋村は、三村の中央に位置して、南北からの出入りでにぎわう。生田鳥居前は、東から三村への入り口にあたる。

 三月三日からは、生田神社前の関門から三村を通過することも禁じた。

 三村を東西に貫く西国街道は、中国から九州にいたる幹線道路である。京都から西にむかう旅人にとって、生田神社前は、旅のはじまりに設けられた関門になる。海辺にたどる道はなく、横道を山手にあがって横道を西にむかうことになる。

 山手の横道は幹線道路とはいいがたい。あぜ道である。

 ここで居留地の工事からはずれていた生島四郎大夫が、再び登場する。生田神社前から山手にあがり宇治野川までの道を開くことを進言したのである。

 新しい道は、ひと月足らずで完成する。

 迂回する新しい道ができたことで、三村へ入ることはさらに厳しくなった。

 村人のほか、三村に泊まることを許されるのは、官吏と警備する兵にかぎられる。旅人には一夜の宿をとることもできない。

 通行者の居住をあきらかにするため、兵庫県は鑑札を発行する。木製で縦二寸五分、横二寸、表に兵庫県庁の烙印と「一人」と墨書きしたものである。三村を見物するものは、この鑑札を借りて関門を出入りした。

 関門の警備が解かれ、三村への出入りが自由になったのは明治二年十月である。

 三年ちかい年月、三村は外国なみの警備のもとで暮らしていた。
岩田照彦
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