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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

生島四郎大夫(12)

生島四郎大夫(12)

 四郎大夫を、長州兵の屯所善福寺へひきたてたのは巨額の居留地工事資金をかくしもっている、というたれこみである。

 根拠はない。が、新政府の顔としてやってきた長州兵には耳よりな話である。日本全土をおさめる勢いの新政府だが、傘下におさめた地域は西国が中心で、当面の費用も、行く先々で幕府に属する領地の金銭を没収するか、新政府側に協力する者の寄付でまかなうのが財政基盤の現実である。

 そんな内情を聞きかじった村人のひとりが、日ごろ幕府のもとで仕事をしてきた四郎の心根も理解せず、居留地の造成工事代金が残っている、と耳打ちした。

 幕府領の庄屋は、新政府軍にとっての金蔵である。下手な手出しで協力金を出ししぶらせてはならない。が、幕府の残金なら名分に不足はない。すわ獲物、長州兵が目の色をかえたのもなりゆきといえる。市民、長兵に頼る念、頓に深いという背景もある。ひきたてられた四郎は、工事代金が残っているどころか、手付金は人夫の支払いになり、不足する額の入金もいまだないことを申しのべた。

 意気盛んな長州兵は、四郎の説明に納得しない。家宅捜査である。

 人夫への支払いは受取で証明できても、幕府から受け取った額を明らかにするものがない。長州兵は、四郎の家にある金すべて幕府からの預かりと理解すればよい。

 四郎大夫の家を捜査したところ、神戸開港30年史は、「一条の麻縄もて井中に垂下せるあり、これを検するに多額の貨幣なり」と書いている。

 金をかくすに事欠いて、井戸のなかとは、変な話である。麻縄が切れたら、貨幣と縁が切れる。商人としての思慮に欠ける。井戸につるしたいたずらの小銭を取りあげて"多額"と言いかえ、隠した証拠としたのではないか。

 四郎は、すべて私財、と言ったが許されず、すべて没収された。さらに貨幣隠匿の罪が加えられ斬首の宣告である。問答無用といってよい。

 四郎は、幽閉された善福寺の一室で、もはやこれまで、と覚悟した。後日、四郎大夫の私財と分かっても亡き者にすれば、詮索の対象になることもない。

 生島四郎大夫、63才。順調な事業にささえられ、村役としてのつとめも果たしてきた。願わくば、変わった世に平穏に生きる村の姿を見とどけたい。龍馬は果てたが、勝との再開も楽しみだ。

 斬首の撤回もなく、四郎大夫を幽閉した善照寺はその日も夜を迎える。


 四郎大夫は、斬首を免れた。新政府の参与兼軍事参謀兼外国事務取り調べ掛東久世通禧とともにやってきた長州出身の伊藤俊介に、専崎弥五平が四郎大夫の平生をのべてひとすじにその助命を乞ったという。「俊介肯ぜざりしが、弥五平屈せずすこぶる切なりしかば、四郎大夫遂に免ることを得たり」。

 その後も四郎大夫は公共施設への寄付、湊川の架橋工事など、社会事業に貢献、明治19年12月31日、生涯を閉じる。81歳。

岩田照彦
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