神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

六月女子学校

六月女子学校

 津田うめらが米国留学に旅立ったのは明治四年十一月、それから一六年後、元町に女性のための学校が誕生した。明治二十年九鬼隆義、佐畑信之、関戸由義、野村致知らにより元町四丁目に開校した神戸女子手芸学校である。発足当初、科目も限られていたが、八月から和様服洋裁、編み物、読書、算術、英語まで授業にとりいれている。
 明治二十年十二月には元町三丁目の善照寺に、神和女学校が産声をあげた。善照寺の婦人団体「生善会」で、本山からやってきた指導僧の赤松連城師が、女子教育の重要性を説いたことから地元の有志が賛同、本山の補助を受け、本堂を仮校舎に開校した。
 校主は同寺の住職である佐々木裕誓。152・の広さのある本堂東側半分が裁縫室、西の隅49・が教場で机、腰掛、黒板などを備えた。南の縁に面して洋裁用の裁断台が二台用意された。生徒は登校すると本堂の如来像に合掌、称名のあと裁縫場の各自の席に着く。
 教科は英学、和学、数学、裁縫、家事経済、修身は「論語」の講義で、読書は漢文「皇朝史略」、英語のテキストは「アラビアンナイト」。開校時の生徒は二〇名だったが、耶蘇教になじまない親や檀家は、その娘を入学させ、翌年には百数十名の生徒数になった。教師陣も西洋婦人教師二名、日本人教師八名をそろえ。明治二十一年七月、開校式を開いた。が、教科内容が高度すぎたためか、二十二年から生徒が減少、二十四年の夏には閉校する。
 設立賛同者の一人だった眼科医の佐伯養順が、親しかった教師の経験もある友国晴子に声をかけ、佐々木元校主からの要請も受けて下山手六丁目の借家を校舎に、同名の学校を開いたのがいまにつづく親和学園である。
 大正六年十月、全国で初めての公立の女子商業学校として元町四丁目に神戸市立女子商業学校が開校した。他の都市より、仕事をする女性が多い神戸にもかかわらず、女子のための実業教育機関がないというのが動機だった。設立の後押しをしたのは鈴木商店店主の鈴木よねである。
 女子商業学校経費にと五年間、毎年四千円の寄付申し出である。専門的教養を身に着けた卒業生は社会的に高い評価を受け、女子職業訓練の先駆的な役割を果たしたが、大正十二年、生田区楠町に本校舎を新築、元町をはなれた。
岩田照彦
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