神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

元町の教育事情(16)

元町の教育事情(16)

 神東小学校
 前回、間人寺子屋が神西小学校になったことを書いた。元町に産声をあげた、いまひとつの小学校にも触れておかなければならない。
 神東小学校である。校区は一番組と称される地域で、一番組小学校ともいった。学区に西の町・札場町・仲の町・濱野町・松屋町をあげている。 開校したのは明治六年二月、現在の元町三丁目にあたる松屋町の善照寺本堂を借り受けた。寺子屋では畳の上での座卓を前にした教室だったが、寺の本堂ながら一枚板の高いテーブルと、これまた一枚板の頑丈な腰掛だった。
 寺子屋の師匠を教師に採用したものの、新しい教育方針にそった教員の養成が必要になる。神東小学校を発足させて間もなく、ここに教員養成のための兵庫師範傳習所を併設したのである。教員を養成する機関だけに、本家の小学校がその付属施設の観を呈したという。
 師範学校まで併設した神東小学校はたちまち手狭になり明治七年十月、もと一番組役場のあった、元町三丁目古美術商・大田氏の敷地である松屋町一三一番邸に校舎を増築した。師範傳習所は明治九年、北長狭四丁目へ移転したが、神東小学校は、師範傳習所で学ぶ生徒の授業実習校の役割をつとめた。
 それでも満足できるような状態の施設ではなかった。児童の就学を奨励する一方、まちの発展は児童数を押し上げ、新たに山本・穴門・栄町にも小学校の分校を設けたものの、当時、一二〇〇人にのぼったという児童を受け入れるには、急場しのぎの施設では、もはや限界をこえていた。
 明治十五年七月、地域内の小学校を合併、神戸小学校の建設をきめる。候補地に中山手の田んぼ、三番踏切の北側空き地、県農事試験場、結局、県官舎を取払い、建設がきまる。
 明治十七年十二月、北長狭通四丁目に神戸小学校が完成、元町から小学校が姿を消すことになる。
岩田照彦
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