神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

柴田剛中(8)

柴田剛中(8)

 剛中は、語学達者な与力森山多吉郎とふたりで、木の香も生々しい運上所の一室で文書を交換してほっとした翌8日、王政復古が宣言された。

 剛中のいる神戸・二つ茶屋・走水の3村は、もはや幕府の直轄地ではない。

 それだけではなかった。江戸への、目の前の帰路にあたる打出の浜にはすでに長州の兵が陣を敷いている。

 森山の手配で、イギリス船「オーサカ」が、沖に姿をみせたのは12月9日の早朝である。

 大阪城で兵庫開港を明言した慶喜に、幕府の独断としてその責任を問い、兵庫開港は絶対に認められないとする意見が大勢を占めた。慶喜は「日本書紀や古事記から抜け出したような意見では、当世まにあわない」と述べ、夜を徹しての朝議で、兵庫開港の勅許を取り付けたいきさつもある。幕府の高官と知れば、不足の事態も起こりかねない。

 身の危険もあると、すすめられるまま荷駄の中に紛れ込むように浜へでた。

 船は錨をあげ、神戸をあとにした。

 開港延期の交渉に欧州へ旅立ったが、10年の延期を5年にちぢめられ、成果は半ばに終わったものの、いまふりかえれば、計画通り10年先の開港では、幕府の手で現実にすることもできなっただろう。慶喜の身を投げ出して獲得した兵庫開港を、国を代表して剛中が締めくくったのである。幕府の事業である開港を自らの手でなしえたことに、剛中は、深い満足をおぼえながらも、開港地として必要な施設の整備は手付かずのままだった。

 外国領事館にふさわしい建物の用意もできていない。英国は、剛中も事務所にした海軍操練場に、フランスは生田神社の境内ときめたが、とどこおりなくおちつくことができたろうか。墓地は、居留地背後の山手に設けることで合意したが、埋葬を急ぐ死人の出現で小野浜に落ち着いたのはさいわいだった。

 おとといの正午、祝砲をとどろかせたあとも港に残る黒船の影はわずかになり、ひっそりと闇につつまれている。

 剛中は、窓の明かりにきずいて、再びみることのない任地をたしかめに甲板へでた。

 朝もやのなかに、大阪のまちがかすんで見える。

 剛中は、ヴィクトリア女王からおくられた双眼鏡を手にした。

 そこに剛中は、パリを見た。山すそをぬい河をわたってついたリヨン駅。馬車での出迎え。石造のルーブルホテル、玄関にひるがえった白地に月を描いた国旗。そしてナポレオン3世との謁見。紙と木に育まれた者の目に焼き付けられた石と鉄のまち。
 明治元年(1868)正月、剛中は幕府の任を免ぜられ、4月依願隠居の後は上総に退き、明治政府には出仕していない。しかし政府からしばしば諮問をうけ、上京して知るところを誠実にこたえている。明治10年(1877)8月、55歳で死去、幕臣身分のままである。

岩田照彦
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