神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

神田孝平 (七)

神田孝平 (七)

 外国人の目で見た神田孝平の紹介で話をおわりたい。
 一八六八年二月、英国公使館つき通訳官見習いで神戸へやってきたジョン・カーリー・ホールの目からみた神田孝平である。四年後ホールは、神戸領事館の下級書記官補として外交官のスタ ートをきる。
 上司が居留地会議のリーダー役になったとき、書記役として同席したホールは、はじめて兵庫県知事孝平にあう。領事はさほど仕事に熱心ではなく、大阪の仕事がおおかったこともホールに 幸いした。他の領事館なら、とうてい手を触れることも許されないような仕事も、ホールの裁量にゆだねられた。
 孝平は、ホールの家に招かれ、食事をともにしながら当時の欧州の重要問題を論ずる間柄になる。孝平の気さくな性格にもよるが、ホールもまた英国領事館員として、意見交換するに十分な 知識と資質をそなえていた。
 ホールからみた孝平は「漢学の素養が深く、蘭学者としても一流」であった。京都・江戸で漢学を学び、ペリー来航の衝撃から蘭学の道にはいる。長崎では福沢諭吉と机をならべ、幕府の洋 学校兼外交文書翻約局の長までつとめた孝平への当然の印象といえる。
 孝平は、英語は話さなかったがゆっくり話せば理解した、とホールはいう。蘭語だけでなく、英語まで理解する孝平に、ホールは英文読解力を身につける方法をきいたことがある。中国語の 原文と英語の訳文が同じページに印刷してあるレッグの「チャイニーズ・クラシックス」を熟読、この本をくりかえし精読して、というのがこたえだった。のちホールもこの著書のうつしを購 入して、神田流で学習した。お陰で中国語会話はだめだが、漢文なら読みこなすことができるようになったという。
 道徳・哲学に傾倒し、儒者として政治学に関心を示す孝平も、ホールには印象深い。儒教は己を修めて人を治める治者階級の学問である。法律や刑罰で民を規律するのではなく、道徳によっ て民を善導する立場をとる。謙虚で、教養をひけらかしたりはせず、政治感覚は自由主義的で、狂信的神道家には共鳴しなかった。
 またホールの目に孝平は天文学者であり、数学者でもあった。天文学への関心の深さは、明治七年、ジャンセンが率いるフランスの金星(ビーナス)観測隊を諏訪山へ迎えいれたことでもう なずける。が、数学者というより、孝平には経済学に関する著書が多い。数学者の表現は、経済学者をさしてのことだろうか。
 歴史や故事についても深い関心を抱き、陶器の鑑定者として第一人者であったともホールはいう。紙幣を眺めて二階からおちた話は、出回った藩札の鑑定に夢中になっていたときのことかも しれない。
 当時最高の知識人の一人とホールにいわせた孝平は、明治二十三年貴族院議員になるが、翌年、病のため辞職、明治三十一年(一八九八)七月五日、六八年の生涯に対して男爵を贈られている。
(「神戸外国人居留地」神戸新聞出版センター刊「神戸開港の頃の思い出」より)
岩田照彦
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