神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

維新前の肉食事情

維新前の肉食事情

 外国人が住むようになって牛肉が 評判になったが、それ以前の肉食へ の関心はどうだったのか。「日本食物 史」をもとに紹介しておきたい。
 広く獣食を禁じたのは、天武四 (六七五)年に始まる。獣食は、病人 でなければ食してはならない、とい うものだ。病人のための食べ物だか ら、世間では肉食を「薬食」といった。 薬用の考えは定着していたようで、 大石内蔵助が主家退散後、堀部彌兵 衛に、老養には最上の品として若牛 の肉を贈ったことがあったといい、 彦根藩では、薬用または釈尊用とし て、みそ漬けの牛肉を、毎年、将軍家 と御三家へ献上していたという。明 治になっても客寄せに「御養生、牛 肉」と朱書の看板をあげる店もあっ たというから庶民には縁遠い食べ物 だったにちがいない。
 一般には、肉食を忌み、家庭で利用 するのを汚れとしていた。肉食すれ ば「悪瘡を発し,中風を起こす」と噂 されており、仏教の影響もあって、田 舎ではともかく一般に食されること はなかった。
 病気と関係なく、はやくから肉食 になじんできたのはオランダ人が 出入りした長崎で、元禄五(一六九 三)年には肉食が流行したと伝えて いる。ただしオランダ人以外は、ぶ た・鶏が主だったようで、中国人が 利用するのをならって広く食され たのだろう。薩摩でも外国人の影響 をうけて牛肉が賞味されており、頼 山陽は天保元(一八三〇)年、書の礼 として薩摩の知人から贈られた牛 肉で友人と賞味している。
 頼山陽が牛肉に舌づつみをうった ことからもわかるように、西洋の学 門に触れたひとも、、家畜である牛 の肉を口にしていた。
 福沢諭吉の日記にも牛肉屋が登 場する。大阪の緒方塾にいたころ (安政三年~五年)の日記に、都合の よいときに度々行くのは鶏肉屋。そ れよりもっと便利なのが牛肉屋だ。 当時、大阪で牛鍋店は二軒。一軒は 難波橋の南詰,一軒は新町の郭の傍 にあって最も下等の店で、ごろつき や緒方の書生が得意の客。どこから 取り寄せた肉だか、殺した牛やら病 死した牛やら、そんな事に頓着なし、 一人前百五十文ばかりで、牛肉と酒 と飯と充分な飲食であったが、牛は ずいぶん固くて臭かった、と書きと めている。その表現から、牛肉では なくももんじ屋でだす山鯨かもし れないが,獣食には抵抗がなかったことには間違いない。
岩田照彦
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