神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

2代目から6代目までの兵庫県知事

2代目から6代目までの兵庫県知事

 伊藤は、明治二年四月、知事を辞任する。
 新しい政府が国をおさめていくには権力を集中させなければならない。幕府時代の「藩」をなくさなければならないというのが伊藤の持論であり、郡県制をしくことを政府に建白している。せまい地域ながらも幕府直轄地を兵庫県知事の行政地域としておさめる伊藤には、「藩」の存在が目のうえのコブとして実感したにちがいない。が、地元の、伊藤の出身地でもある「藩」にとってはおもしろくない。知事になったのも「藩」の力ではないか。藩意識のつよい守旧派から奸物とされたのが辞任の理由である。
 伊藤の辞任申し出に、政府の回答は、知事は免ずるが兵庫は重要な港があるから判事としてのこり新しい知事を補佐するように、というものだった。
 伊藤にかわって任命されたのは、新潟県に吸収されるまで存続した柏崎県知事だった久我通城(くがみちき)である。久我の父・建通は「和宮降嫁」をはかった公武合体派の公家でる。知事への命をうけながら、久我は、任地に顔もみせないまま五月十九日には退任した。伊藤をのこせば、兵庫は安泰とみた人事だったのだろうか。
 かわって兵庫県知事に命じられたのは中島錫胤(なかじまますたね)である。久我退任直後の五月二十一日である。徳島藩士の中島は弘化元年、家老稲田氏に従い出府、昌平黌に学び万延元年、桜田門外の変に関係して伏見に投獄される。同三年放免、文久三年二月京都等持院の足利三代の木像を取り出し三条河原に晒した事件にも関係して投獄の経験ももつ志士である。六月一日、顔をみることもないまま退任する。
 つぎの知事に陸奥陽之助がやってきた。
 陸奥の知事赴任を伊藤はよろこんだ。
 陸奥は和歌山藩士である。陽之助は文久二年京都へ上り勤王運動に参加して龍馬を知る。翌三年、海軍操練所へ入って勝海舟の指導をうけ、慶応二年坂本龍馬主宰の亀山社に属し、海運商事に従った経歴もある。明治元年正月外国事務局御用掛に任官、摂津県、豊崎県知事をへての兵庫県知事任官である。年は伊藤より三才下、勤王運動の経歴もあるが、諸藩を廃して郡県制のうえに統一国家をつくる案を新政府に建白した仲間でもある。
 陸奥が兵庫県知事として就任すると七月一日、外国領事に陸奥知事就任の挨拶状を配布した。伊藤には、やっと兵庫県知事の後任をえたおもいだったろう。しかも、後事を託すには願ってもない人物である。十六日夜、各国領事を県庁内に招いて陸奥を中心に晩餐会を催した。伊藤のはしゃぎようが目に浮かぶ。
 それから一月あとの八月十八日、陸奥は転勤を命ぜられ東京へ去る。のち陸奥が、博文と共に政治の世界で活躍するのは明治二十五年、第二次伊藤内閣の外務大臣としてである。 陸奥のあとは税所長蔵(ざいしょちょうぞう)である。薩摩藩士の父をもつ税所は若いころから西郷隆盛や大久保利通と親しく第一次の征長の役に岩国で吉川経幹にあい、長州側の処分のほか、長州にいる公家を筑前に移すことにもかかわっている。税所は一年あまり在職し翌明治三年八月、堺知事に転出する。 税所に代わって知事の椅子を占めるのは大参事から昇進した中山信彬である。が、中山もまた岩倉具視の特命全権公使として欧米諸国へ赴く随行を命ぜられ、一年のあいだ席をあたためだけで明治四年十月、兵庫を去り、翌十一月、神田孝平をむかえることになる。
岩田照彦
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