神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

元町の教育事情(15)

元町の教育事情(15)

 塾から小学校へ
 明治政府発足後、間人寺子屋はどうなったのか。
 明治二年二月、明治政府は小学校設置の奨励をはじめ、明治四年七月、文部省を発足させた。そのころまで、さしたる動きは見られなかったが、明治五年七月、学則ができたことを受け、県令の神田孝平は、当時区長だった生島四郎大夫らに小学校設立をうながしている。さらに明治六年一月には、「塾へ通学せしむべからず」との通知で追い打ちをかけた。塾の師匠は衣食の糧を失うとの抗議には、ひきつづき小学校の教師に採用することで対応した。
 明治六年、神戸区内を四つの校区に分け神東・神西・花隈・上田の四小学校ができる。この中で、二番踏切筋から宇治川までを校区としたのが神西小学校である。同校は、間人一郎左衛門の塾を借り上げて創設した。間人寺子屋が、そのまま小学校になったのである。
 しかし、小学校とするには手狭すぎたようで、明治七年一月には、二番組の戸長役場に移転、さらに旧会所の裏に二階建ての校舎を建て、二階に四教室、階下三教室のほか、旧会所の座敷の一部を教員室にあて、一部を児童控室にした。教員六名、男子生徒九三名、女子生徒九三名の小学校である。
 教員六名のなか、神西小学校の創立から明治七年九月まで、寺子屋で教えていた間人一郎が首席教員を務めている。寺子屋で、義弟の一郎とともに、寺子屋で女師匠をつとめていた間人たねには、小学校からの誘いはなかったようだ。
 寺子屋をそっくり神西小学校へ提供したため、住まいは他へ移していたが、新校舎の完成によって明治八年、間人家建物の返還を受ける。
 神西小学校教諭だった一郎は退職後、向学のため東京へ旅立つ。残された間人たねは明治七年、落馬事故で三二歳の夫を失っていた。近隣からの要望をうけ、施設を利用して幼児を預かることになる。たねは、東京高等師範学校付属幼稚園で保育法を習得、さらに大阪の幼稚園で保育の実地を学んだうえ、明治一九年(一八八六)一一月、「間人幼児保育場」を開く。翌明治二〇年三月、間人幼稚園と改称、大正一〇年三月、たね七四才の生涯とともに廃園となって終わる。
岩田照彦
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