神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

専崎彌五平(2)

専崎彌五平(2)

 武備もそなえず開戦するのは時期尚早、天皇がそのような考えであったことなど、彌五平は知る由もない。

彌五平だけではない。長州人は、側近のそそのかしで天皇が変心した、とのおもいである。京阪地方に残った者と図って再び京都へ進出しようと考えている。

 元治元年(1864)、長州では、再び京都へ乗り込もうとする動きがめだってきた。一方、長州の力をたくわえるのが先、の意見もそだっている。京都乗り込みの積極派は来島又兵衛や久坂玄瑞であり、藩の富国強兵が先とする慎重派に桂小五郎や高杉晋作がいる。 長州はどう動くか。身を潜めた長州藩兵から郷里のうごきをききながら彌五平は、気のおもい毎日をおくっている。信望が薄くなった幕府にかわり、天皇をたてて夷狄をはかる、長州が、雄叫びをあげる日を一日千秋のおもいでいる。

 彌五平に、その期待をふきとばすような事件がおこる。

 二つ茶屋の浜から三条らを送りだして10カ月あとの元治元年(1864)6月、京都三条河原町の旅館池田屋惣兵衛方で、長州藩の吉田稔麿ら尊攘派が近藤勇のひきいる新撰組に襲われた。その場にいた桂小五郎はかろうじて難をさけたが、京阪でひそかに活動してきた尊攘派志士の多くが殺される。幕府の手下である新撰組に襲われたことを知り、長州の尊攘派は動揺する。"攘夷親征"派には、息の根にかかわる重大事である。

 攘夷を奉ずる長州の出番がなくなる・・・。6月中旬から7月上旬にかけ、彌五平のおもいをすくいとるように長州が動き出す。長州藩の益田右衛門介・福原越後・国司信濃の三家老や真木和泉、久下玄瑞、入江九一らが兵をひきいて東上、毛利定広、三条実美の公卿らもその後をおう。彌五平は、洛外に集う隊のため天幕や生活物資の供給に駆けまわる。 幕府も配下の諸藩兵をあつめて対抗する。7月19日、嵯峨方面から攻め込んだ来島又兵衛の部隊は、宮廷の蛤御門のあたりで激しく戦った。幕府をはじめ会津、桑名、薩摩兵の前に来島も討ち死、長州は惨敗した。禁門の変である。

 京都をのがれ、故郷に向かう傷をうけた長州兵が彌五平をたよってくる。手当しても、そのまま旅だてない者は逗留させる。一人や二人ではない。元治元年(1864)7月24日、幕府が長州追討の勅命を受け西南21藩に出兵を命ずる。長州兵をかくまえば、朝敵に加担することになる。

 長州兵にたいする彌五平の世話は、確信犯のような行為で、幕府にとって目にあまる。

 大阪町奉行所の牢獄に拘束されて1カ月、家にもどっと彌五平は、一歩足を踏み入れ、立ちすくむ。見るべき家財はなく、伸びた髭のまま呆然と立ち尽くす彌五平を見かけても、、幕吏をはばかって近寄ろうとしない。彌五平の目にはいった人影が、手紙を無言で差し出す。村主四郎大夫の名で、長い牢生活をねぎらう言葉とともに心ない者の仕業によって家の荒らされたことをわび、街道筋3村(走水村・年寄船井長四郎、二つ茶屋村年寄高濱太左衛門)語らって、心ばかりのつぐないを・・・。 

 数日後、彌五平は西に向かう船の中に身をおいている。

岩田照彦
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