神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

神港中学校

神港中学校

 元町に生まれた最後の学校を紹介して元町の教育事情をおわりたい。 大正十四年三月十七日付で兵庫県知事から認可を受けた私立神港中学である。
 大正期は、第一次世界大戦が好景気をもたらし、日本の資本主義を飛躍的に発展させた時期である。神戸市の人口は大正初期の四十万人台から増加の一途をたどり、大正十二年には七十万人台までふくらんでいる。小学校では教室など設備が不足して、二部授業制度が導入されている。産業構造の変化によって、より高度な知識をひつようとする職業への就職が広がり、学歴を尊重する風潮がひろがっていた。
 神戸市における中学校への進学率は大正四年の7%から大正十四年には14%まで伸び、深刻な試験地獄をもたらしていた。国も、私立学校の充実に期待した年である。特に商家の多い地域では、子弟に中等教育を望む声が高くなっていた。これをうけて設立に動いたのは、私立神戸区教育会である。
 同会は明治二十二年、神戸小学校長の足立利康と有志が、普通教育の普及と改良のためたちあげた組織である。不就学児童のための私立夜学校の設立や経費補助、神戸・山手両や学校の設立、機関誌の発行、講演会、功労者表彰などの実績がある。神港中学の設立もその延長線上の大きな事業だった。二百名あまりの会員で発足した同会も、大正期には千名を超え、それなりの財政基盤も確立されていた。
 校舎は、元町四丁目の、もとの二つ茶屋村の代官所で、明治になってからは二番組戸長役場として使われ、神西小学校がはじめて学舎にしたところである。この建物を区有財産であったことから同会に無償貸与された。学校独自の校舎ができるまでの施設として、学校では「元町仮校舎」とよんだ。すぐ北側では、国鉄山陽本線が汽笛をひびかせていた。
 応募者五五三名から一七五名が入学を許可された。仮校舎に入学者一同を集める教室はなく、四月八日の第一回入学式は、神戸小学校の講堂で行った。
 仮校舎で一〇年過ごした昭和八年、神港中学は、山本通りの神戸女学院跡に移転する。
岩田照彦
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