神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

元町の教育事情(1)

元町の教育事情(1)

 商店とのかかわりを柱に話を進めてきたが、角度をかえ元町の教育事情について書いてみたい。
 神戸・二つ茶屋・走水三村の時代、制度としての学校があったわけではない。教育の場が整備される前提には平和であることが前提になる。
 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて幕府を開いた一六〇三年から一八六七年の徳川慶喜による大政奉還まで、戦とは縁のない平和な時代がつづくことになる。武術は形式化し、太平の世は、武士社会にも学問の世界を身近なものにした。
 学校の形をととのえるのは、やはり権力者の世界から。藩士の子弟のために設けられた公的教育機関で、「藩黌」(藩校)と呼ばれるものだ。寛文九年(一六六九)、岡山藩主池田光政が「岡山学校」を建ててから、各藩に広がった。
 その中心になったのは江戸幕府の昌平坂学問所(昌平黌)。もとは幕府儒官林羅山が寛永九年(一六三二)、上野の私邸に孔子廟を創建したのにはじまる。火災で場所も替わり、寛政二年(一七九〇)、林家の家塾であった名残を一掃して幕府の支配下におき、昌平坂学問所として発足した。
 元町のあたりにはなかったが、兵庫県にあった藩黌を紹介すると...。
img_121101.png もっとも早くスタートしたのは酒井氏が治める十五万石播磨国姫路藩の「好古堂」で、元禄四年(一六九一)にできている。元禄七年(一六九四)には九鬼氏三万六千石の摂津三田藩「造士館」がつづく。元禄八年(一六九五)には織田氏の丹波柏原藩二万石に「崇広館」がデビュー、宝永六年(一七〇六)は森氏二万石の播磨赤穂に「博文館」が開校した。享保三年(一七一八)には播磨安志藩一万石小笠原氏の「明倫堂」、明和三年(一七六六)には丹波篠山六万石の青山氏が「振徳堂」を、安永四年(一七七五)には但馬出石三万石の仙石氏が「弘道館」、寛政六年(一七九四)は播磨林田藩一万石の「敬業館」を開設する。寛政八年(一七九六)は播磨三日月藩森氏一万五千石の「広業館」、天保二年(一八三一)播磨龍野藩五万一千石の「敬楽館」、天保三年(一八三二)但馬村岡藩一万一千石の「日新館」、天保四年但馬豊岡藩一万五千石の「稽古堂」、同じ天保年間には、播磨小野藩一柳氏一万石の「帰正館」、同じく天保年間に播磨山崎藩一万石本多氏の「思斎館」、安政二年(一八五五)には池田氏播磨福本藩一万石に「時習館」と続く。
 さらに時代を経て慶応三年(一八六七)丹羽氏の播磨三草藩「修道館」、明治二年(一八六九)播磨明石藩八万石松平氏の「敬義館」、かつて元町が村だったころ藩主であった松平氏の摂津尼崎藩四万石の藩校「正業館」もまた、同じ明治二年の開校である。
岩田照彦
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