神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

走水村の商い

走水村の商い

 走水村は、神戸村・二つ茶屋村のように、商いが目的でうまれた村ではなかった。
 永禄・元亀(一五五八~)の頃、山手の坂本村よりこの往来に出で田畑を開き耕作せしに、漸次この方面に移居し、遂に一部落をなすに至る、というから、山近くから、耕作に適した土地をもとめてあつまってきたひとたちがつくった村ということになる。
 永禄元亀の頃といえば、二つ茶屋が隣り村にできた時期にあたる。坂本村でも、隣村で茶屋をひらいた三城や高木氏のように、食いぶちを自らうみださなければならないひとたちがいたのだろう。茶屋という目玉もなく、ここでは田地の開発をめざす。
 が、水に苦労した。
 隣村二つ茶屋領字御所坂の下、清水の田地水押し強く、降雨の時は氾濫道路恰も小川の如くなり水勢災いをなして流れ落つ。故に此のところを走水村と名付けた、といわれた。
 生きる知恵で水との共生をはかり、安住の地として間もない永禄十年(一五六七)、荒木村重が天正二年(一五七四)、織田信長の命で、執拗に敵対する大阪石山本願寺に対する守りとして花熊城を築くとき、播州三木郷からこの村へ大工がやってくる。
 大工は渡り職人だから、仕事のあるところへあつまる。すこし後になるが延享元年(一七四四)の記録によると、町に住む職人のうち、大工をはじめ瓦屋、左官、畳屋など半数以上が建築関係の仕事である。もとから三木郷は、仕事の情報が入りやすく、大工関係の職人がたむろする町だったのだろう。その大工があちこちから道具を持ち込んで、後年、金物のまちとして名をはせることになる。
 三木からやってきた大工は、花熊城ができあがっても三木へもどらず、そのまま走水村に住みついた。大工は、天正の頃には十数軒もあったというから、仕事に恵まれた土地柄とみたのだろう。
 荒木村重が織田信長に謀反、天正八年(一五八〇)、花熊城は池田信輝らに攻められて落城する。
 村重が落ち延びたあと、城に残された一族が信長の命で命を奪われるのを聞き、信長の激しい気性からくる徹底した処罰におびえたのか、築城にたずさわった三木出身の大工たちも、天王谷山中に小屋を建てて身をかくす。
 しかし、隠遁のくらしもながくはなかった。
 池田信輝は花隈城を落とした功により、織田信長から兵庫の地を与えられ、輝政とともに父子で、翌年の天正九年(一五八一)兵庫城を築くことになる。現在の中央卸売市場の西側、切戸町、中之島の一部にかけて東西南北それぞれ一四〇米の地域。築城のための資材は花隈城のものを移して利用した。騒乱止むと共に各処に散居せる三木出身の大工らが集まり、もとの住まいを根城にして、築城のため大いに活躍した。
 寛永から元禄にかけて大工職の家は三十軒あまりに増加し、歳月を経て居住者の枝葉多く栄え、明和六年(一七六九)には既に二百軒余となり村内は甚だ繁盛せり、と「西摂大観」にあるから、村人のための商いの店も点在するようになっていただろう。
 天正十一年、信輝が大垣城に転じたあと羽柴秀吉の直轄地となり、大阪落城後の元和元年(一六一五)尼崎藩領となり、兵庫陣屋として奉行をおくが、明和六年幕府の直轄地となり、勤番所を設け、明治元年、明治政府は兵庫鎮台を置く。同年二月に兵庫裁判所、同年五月に兵庫県庁と改称、初代知事に伊藤博文が着任する。
 商いには縁遠いが、城づくりを通じて、兵庫県政の礎を準備した特異な村といえる。
岩田照彦
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