神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

二ッ茶屋村

二ッ茶屋村

 永禄年間(一五五八~一五七〇)のことという。
 松永久秀が、布引の滝山城へ三好長慶をむかえ、織田信長が天下統一を胸に摂津地方の平定にうごきだす。 三好勢によってうばわれた摂津の国をとりもどすため、かけつけた信長の前にたちはだかる本願寺衆。 足利義昭側の伊丹城を落とした荒木村重を、その城主にすえた信長。 神戸市域にも戦雲の波がたけだけしくなりはじめたころである。
 四宮神社の北に、中宮という村があった。いまの山本通あたりになる。 中宮村には六戸あり、戸数がふえると火の災難をまぬがれないとつたえられてきた。 六戸はいずれも六甲山地からの流れを利用して絞油や製粉、精米する水車業を営んでいた。
 ふたりの武士が、中宮村にいた。高木新左衛門と三城四郎兵衛である。 戸数をふやさぬ掟のまえに、同村の出身とはいえ、ふたりが村で生きる術はとざされていた。
 武士の道にもどる気持ちもなかった。勢力を拡大するため、主人を殺害して主家をのっとる。 命を断っておかないと殺されるから、謀反の噂だけで、主人が従者の首をはねる。 誅伐と反逆は、勢力をたもち、勢力を拡大するため公認されるという、争いの時代だった。
 ふたりは、生きるために茶店を開業した。西国街道に行きかう旅人は多い。 兵庫をめざす人は、もうこのあたりまでくればと思い、東へのぼる人は、はるか西宮の宿までの道程をはかりながら腰をやすめる。 武士の商いがうわさになり、ふたりがそれぞれに始めた団子やそば、菓子などおく茶店は、おやつに利用する地元の人にも評判をよんで繁盛した。
 数年後、武家屋敷も備えた花熊城が完成し、荒木村重が城をあずかることになる。 城と行き来するひとも増えて、茶店に客のたえることはなかった。が、信長にねがえりをうつことになる荒木村重。
 信長は、池田輝政に花熊城を攻略させた。花熊城は、根来衆や雑賀衆を武将にむかえ、地元から千人を超える男女を雑兵として籠城させ、てごわかった。 城をぬけだした飢餓の武士に出あうと、茶店では目立たぬよう奥へまねき、食事をあたえた。
 兵糧の補給もままならず、花熊城はやがて落城する。 老いた新左衛門と四郎兵衛は、城のなかに身をおくことになっていたかもしれない我が身をふりかえりながら、落城の日をどんな思いでむかえたか。
 のち人々は、こぞって「二茶屋」を村の名前にした。

 池田家に花熊城の絵図が残されている。二茶屋の村名は走水村と神戸村の間に明瞭に記載してある。
永禄年間には六戸の村にさえ中宮の名前があるくらいだから、はるかに戸数の多い二茶屋村の名は、当時すでに定着していたはずである。じゃま者あつかいの武士ふたりが、はたらき者に変身して、村人とともに成功させた「二茶屋」、村名にしたのは、地元のほこりりとして、後の世につたえようとした。 まだ1日に2食のころだから、地元の多くの人がおやつに茶店を利用したにちがいない。
岩田照彦
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