神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

柴田剛中(7)

柴田剛中(7)

 慶応2年末、幕府をたおすと結団した軍団が海上を東にむかっている。

 長州藩兵1200名は6隻の軍艦で、薩摩藩は、藩主みずから家老島津茂久や西郷吉之助をしたがえて4隻の船に3千人を分乗して京にむかう。長州は芸州藩も誘い、京の勢力増強をはかる。

 東からも兵庫にむかう船団がある。

 英国軍艦アドベンチャー号は、ハリー・バ-クス卿のほか公使館つき書記官ロコック、兵庫駐在領事に任命されたマイバー、大阪副領事ラウダーや公使館員らを伴って横浜から兵庫にむかう。米国は、軍艦シェナンド号に公使ファン・ファルケンボルク将軍と代理領事に任命したばかりのポール・フランクを乗せて西にむかっている。神戸入港第1号の商船たるべく兵庫に向かうライトニング号には、プロシャ公使フォン・ブラント(ドイツはまだ統一国家ではなかった)とイタリア公使デ・ラ・トゥール伯が乗船していた。

 P・M汽船の蒸気船ハーマン号は、オランダ公使ファン・ボルスブルックと多数の船客を乗せ、横浜から兵庫に向かう。

 剛中が、欧州を歩いて約束してきた国々の日本にたいする目は、横浜から12月7日に開港を約束した兵庫にあつまっている。

 11月30日長州藩士千人が蒸気船から上陸、打出村の元同藩陣屋にはいる。長州藩兵1300は、陸路、尾道まですすみ待機する。戦になったときの担当地域をきめ、戦況によっては天皇を山崎路から西宮へぬけ芸州への道程まで考慮した決戦の構えである。

 翌12月1日、剛中はイギリスのウイルソンと同道、山手にかわって準備した小野浜の外国人墓所を検分している。途中アメリカ公使と出あい、その後、イギリス公使と会談のため入港中のイギリス艦に出むいている。

 港内に錨をおろした船に、死者がいた。英国軍艦ロドネイ号には心臓病のアーチボルト・ヘンリー・ターナー大尉と、肺結核のためなくなった米国軍艦ハートフォード号の軍医である。死者のためにも、開港日をおくらせることはできない。
 剛中は、条約履行の日があたまのなかにすわりこみ、履行の日が、まるで糸をひくように剛中をうごかしている。

 剛中が、ロンドンでかわしてきた開港を約束した日まであと7日。開港式前夜の12月6日、夜も松明を焚いて、運上所や貸蔵設備仕上げの作業を指揮している。

 ケッペル提督を乗せた旗艦ロドネイ号ら6隻の英国軍艦、米国公使を乗せたシェナンド号ら4隻の軍艦のほか、プロシャ公使やイタリア公使を乗せて停泊する商船には、極東のあらゆる地域から集まってきた外国商人がひしめいていた。仕事の優先権を手に入れることが、商売に勝つ決め手になることを知り尽くしている商人たちは、開港のその瞬間、その場所にいなければ商機を失うと決心してやってきた連中である。

 幕府は大政を奉還して将軍は席にない。朝廷から、権力の委譲受け入れの宣言もない。

 開港の日、外国にたいする日本の主権者として柴田剛中が書類を交換した。

岩田照彦
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