神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

専崎彌五平(3)

専崎彌五平(3)

 彌五平は、三条実美らをおって、三田尻(山口県防府市)のまちにあがる。毛利氏の水軍基地であっただけに船頭がおおくすみ、塩の産地で浜には塩問屋がならぶ。
 長州も藩は騒動のなかである。
 彌五平がたよりの来島又兵衛はすでにこの世にない。英米仏蘭による長州攻撃をしり、視察のため英国へ密航していた伊藤博文が、急遽帰国、江戸でイギリス公使にあい、攻撃延期をもとめるが成功せず、八月、下関の砲台群は英米仏蘭四国艦隊にせんきょされる。
 幕府は長州への武器、米穀の輸送を禁ずるいっぽう、長州への攻撃準備をすすめている。
 お家の安泰を優先する長州藩内の俗論派は、すべてを犠牲にして幕府に恭順の意をあらわし、毛利家をまもろうとする。武備恭順を前面に、幕府と一戦を辞さない方針を主張するのは、諸隊中心の正義派である。九月、井上聞多の説得で藩主が正義派をおすことをきめた夜、俗論派は井上をおそい主導権をにぎる。 長州藩は、軍をひきいて京都にのぼった三家老に切腹、参謀役の四人を死刑に、十月、幕府に恭順謝罪のため諸隊に解散命令をだす。
 彌五平には、わが身を切られるような長州藩の処置である。長州まで身をよせた甲斐があったのか。このままでは、二つ茶屋村へももどれず、長州にさえ身のおきどころをなくしかねない。
 十二月、動きがあわただしくなる。中旬から翌年正月にかけ、瀬戸内沿岸地方の郷士や豪農たちの思いをうしろ盾に、高杉晋作が藩の軟弱な措置に反旗をひるがえす。下関の伊藤俊輔は力士隊をひきいて長州藩の下関役所占領で呼応する。まちには「正義」を回復するため農民や商人もたちあがろう、の高札がたつ。正義派がたおれては長州藩もそれまで、百姓一揆もおこしましょう、血気さかんな庄屋まであらわれる。
 彌五平には、長州の臓腑をみるおもいである。ついこの間までの、腐れ鯛みたいな長州が、いま燦然とかがやいている。彌五平は伊藤のそばで、小まめにうごく。
 禁門の変のあと、但馬出石に潜伏していた桂小五郎も合流、慶応元年(一八六五)のはじめ、藩庁は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、井上聞多ら松下塾門下の正義派に占められた。藩主も、俗論派が取り巻いていた萩から山口にうつる。
 英国をつぶさに見てきた伊藤俊輔は桂小五郎にいう。日本がこれから興隆をはかろうとするなら、開国して万国と交流するほかない。国威を外に伸ばすためには大政の統一をはからねばならぬ。勤王倒幕の機運が熟してきた趨勢に乗じ、その統一の大業をなす覚悟を固めなければならない。
 彌五平もまた、村へかえる日のちかいことを伊藤の言葉から、自分にいいきかせている。
 長州藩家老らの切腹によって、約束とおり幕府の長征軍は解散する。あとは薩摩藩・西郷隆盛の斡旋できまった三条実美、四条隆謌、三条西季知、壬生基修、東久世通禧の5卿(錦小路頼徳は三田尻で没し、沢宣嘉は脱走して生野義挙に加わる)を他藩へうつすだけである。
岩田照彦
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