神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

大西座 (九)

大西座 (九)

 大西座のにぎわいをささえた条件はいくつか考えられる。
 立地がよかった。兵庫にちかい。宇治川と湊川をはさんで走水村に隣り合う、当時は都会格ともいうべき兵庫には、先輩格の芝居小屋もある。兵庫にくらす芝居好きには、ふだん水のない湊川をこえるだけでのぞくことができる。
 商いの店が多い西国街道沿いにあったことも、ひとの足をあつめるのにおおきな役割を果たしている。東からの芝居好きはもちろん、山手に暮らすひとたちもあつめた。遊郭がちかくにできたことも観客をあつめるのに幸いしたことだろう。遊びの場で、芝居小屋にまつわる話は格好のものである。趣味の世界が無限というにちかいほど広がりをみせる現代とちがって、色事と相撲と芝居が三大娯楽であった時代である。
 観客の興味をそそる出し物への配慮も、大西座はおろそかにはしなかった。定番の演目をそろえ、座付き作者の新作ものにも手を染める。
 役者も、京都・大阪の小屋に恥じない顔触れをそろえていた。
 さらに驚いたことには、市場町と目と鼻の先の八幡町でも、大西座で興業した大谷友藏が座本で公演している。
 池田文庫の芝居番付目録には、こうある。
 「神戸八幡町芝居」 文久二年一月、玉置清七
  座本・大谷友藏
  本朝廿四孝
  (ほんちょうにじゅうしこう)
  摂津国長柄人柱
  (せっつのくにながらのひとばしら)
  積情雲乳貰
  (つもるこいゆきのちもらい)
  嵐璃寛・実川延若・中村七賀助ほか
  作者 近松八十翁・奈河忠鳳
 大谷杉蔵は文久元年六月、神戸大西芝居で興業した実績をもつ。
 演目は、けいせい花五十三駅(はなのごじゅうさんつぎ)、和田合戦女舞鶴(わだかっせんおんなまいづる)、郭文章(くるわぶんしょう)で、出演は、嵐璃寛・嵐橘三郎・浅尾友蔵ほかによる公演である。
 慶応四年の新版として神戸松屋町・多田屋善九郎らが発売した大まかな地図のうえで、大西座は市場町の浜側に面してある。市場町の東となりが八幡町。八幡町の西口ちかい山側に八幡神社があり、向かいあった浜側に天神社がある。地図のうえでみると、天神社の敷地は、街道筋にに並行する南の通りに面していて、八幡社より南北にながい。向かいの天神社にくらべて八幡社は名ばかりのささやかな社殿ながら、小屋がけには格好の敷地に恵まれていたのだろう。
 八幡町が正式の地名として登場するのは明治元年だが、西摂大観によると、それ以前から「神戸八幡町」と称していた。修理か改装か、なにかの都合で大西座がつかえなくなり、急遽、仮の芝居小屋を起用したのだろうか。それとも何かの事情で、大西座そのものを「神戸八幡町芝居」と称したのだろうか。
 玉置清七による番付目録も、芝居の魅力を訴えるおおきな力になったであろうこともつけくわえておこう。
岩田照彦
PCサイトを見る スマホサイトへ戻る