神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

触れ書きにみる心意気

触れ書きにみる心意気

 明治初期の新政府による触れ書きを紹介してきたが、もっともはやく出されたものに、慶応四年二月の「群衆乱舞を禁ず」がある。
 当時、ええじゃないか踊りがはやっていた。一月十一日に三宮神社前で備前兵と起こした外国人との衝突で、一時、三村は占拠された。外国人による占拠が解かれて、三村の治安維持のため派遣されてきたのが薩長の兵である。
 三村の東西に関を設けた。ええじゃないかの一群は、その関へもくりこんだ。官軍をねぎらう気持ちもあったようで、酒をもちこむ者がある。これに手をやいたらしい。
 走水村・神戸村・二つ茶屋村を名指して、家業を捨ておき、婦女小児群集踊り歩行、あるいは警衛所の陣内へみだりにたちいること以後かたく禁ずる、との達しである。三村以外の者でも、当地では許さないので心得るように。
 警備に支障をきたすうえ、外国兵にたいしても毅然たる態度をしめすことももとめられていただろう。
 慶応四年の九月、明治元年と改元されるがその年の十二月、今度は兵庫市中へ「若者組と唱え、家宅を乱暴する等の悪弊を禁ず」という触れがでた。
 人の救済ごとや公のことに金をだすのをこばむ一方、一両日のためだけの神事や祭礼のためと称して金をせびる、ことわるとその家へおしかけ乱暴狼藉をはたらくような悪弊を禁ずるというものである。悪弊というから、以前からもみられたものだったのだろう。若者中とい
うことで組合のようなものをつくることも相成らずとした。新政府にしてみると、公に金をださないことへの怒りが、根にあったのかもしれない。
 アヘンの売買・吸引を禁ずの触れが兵庫県庁名で出たのは明治三年六月である。
 洋薬の名目で輸入されていると聞くのはもってのほかで万一、呑みならい、また売買する者あれば男女を問わず厳罰に処すとした。当港に居留する清国人にも漢文で、雇っている日本人にも同じようにいいわたし、そのような者がおれば本人だけでなく雇い主も罰する。明治三年六月、アヘンによって被った清国の事情を理解したうえでの兵庫県庁名による布告である。
 兵庫県庁名で明治三年八月、貧民の児女を外国人へ売らざるようと触れ書きもでた。
 近来、開港場において、外国人が容貌よろしき児女をえらび、その親から極秘に買い取る、あるいはかどわかしてつれ去ることもあると聞く。親子の情合をわすれて目先の利にはしるなど理解できないことであり、あってはならぬこと、心得違いをせぬよう。
 居留地にとなりあう三村もその舞台になっただろうが、その触れ書きは特に周辺の村々へひろく達せられた。村落に暮らす人たちの間で、児女を手放す事件があったのであろう。
 明治六年六月には、諸官員が用向きのためたずねても、宿舎となるところで料金相応の賄のほか酒肴をだすのはもってのほか、また官員が宿泊費などを払わなかったり不足のときは、後日、封書でもよいから申し立てるように、という通知もある。
 投書でもよい、新政府の心意気のようなものを感じさせる。
岩田照彦
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