神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

舗装のはじめ

舗装のはじめ

 明治のはじめ、神戸外国人居留地には、石張りの広い道が伸びていた。その目と鼻の先といってよい元町通に、舗装という化粧がはじめてほどこされるのは大正八年(一九一九)だ。自治権をもっていた外国人居留地の道路と比較することはできないが、九米への道路拡幅からさらに三〇年をへて新しい顔をみせることになる。
 道路の拡幅で、ゆったりと歩行を楽しめると喜びはしたものの、日が経つにつれて路面の痛みも目立ってくる。商いの店が並んだ道には、それぞれの持ち場で、来客のための手入れに余念はなかっただろうが、それでも雨上がりの道には水たまりができ、凹凸の道に悩まされるひとも多く、ぬかるむ道を敬遠するひともある。乾いた季節には、商店主が、商品に忍び寄る砂塵との格闘に明け暮れる日もあった。
 国としても、道路への関心は高いとはいえなかった。内務省は明治二三年一二月に道路法案を起草したものの閣議を通らず、明治二九年にも上程したが衆議院で否決、明治三二年の上程は審議未了、道路法が成立するのは大正八年(一九一九)、元町通舗装の年にあたる。
 東京では大正一〇年(一九二一)道路舗装は道路総面積の一割に過ぎなかったが、大正一二年(一九二三)九月一日に発生した関東大震災後の昭和五年には、道路総面積に対して五割を超える道が舗装された。
 舗装の技術は関東大震災後、一気に進んだと思われるが、元町が舗装されたころは手探りの段階だった。神戸市史は「道路舗装の材料は未だ試験的に属するを以て、その施工も各種の材料を部分的に試用せざるにすぎず」と書いている。
 すでに軒を連ねる商店街としての風情に彩られていた元町通である。馬車や人力車の類いが重量物であり、路床上の支持力など厳しい条件を求められることはなかっただろう。
 採用されたのは、砕石、砂、石粉とアスファルトを加熱融合させ、これを敷きながら上から締め固めるアスファルト舗装だった。
 アスファルト舗装によって歩行者は、雨の日もぬかるみに足をとられることはなくなったが、商店の側には、アスファルトへの照り返しによって籠もる熱をどう防ぐか、籠もった熱をどう逃がすか、新しい問題にも直面して面食らうこともあっただろう。
 しかし、来街者にとってアスファルト舗装は、かつての道にくらべ足元のさばきは格段に楽だった。
 ぬれて光ったアスファルト 青いマドロス 恋あさる 恋あさる・・・
 元町通を歌う神戸行進曲が口ずさまれるようになるのは、さらに数年後のことになる。
岩田照彦
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