神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

元町の教育事情(3)

元町の教育事情(3)

 近直が身につけた御家流の「書」は、青蓮院流の一派とされる。
 青蓮院流は、伏見天皇の皇子である尊円親王(一二九八~一三五六)に始まった。世尊寺流を学びながらそのまま継承せず、やさしくて穏やかな和様の長所と中国風の力強い長所を兼ね備えた書、といわれる。尊円親王が青蓮院門主であったことから青蓮院流と呼ばれ、平明温雅にして癖がないため室町時代から江戸時代の末まで、広く流行した。
 書きやすく、読みやすいため、実用書としても適していたことから、多くの流派が生まれることになる。幕府は御家流の一派である建部伝内(一五二二~一五九〇)の伝内流と大橋重政(一六一八~一六七二)の大橋流を用いた。特に建部伝内は、徳川家康に召されて右筆となり、徳川一族に書法を教えている。幕府が導入すれば、自ずと諸藩も御家流を用い、文書はすべて御家流に統一される。百姓、町人も御家流を習い、寺子屋の手習いもすべて御家流で、各階級、各地方に普及した。
 御家流には幕府御用達の伝内流、大橋流のほかに、篠田行体の篠田流、篠田五郎蔵の明浦流、玉置伴助の玉置流、寺沢友大夫の寺沢流、馬場条助の馬場流、長尾半左衛門の長尾流、溝口荘司の溝口流、尾崎伴右衛門の尾崎流、百瀬耕元の百瀬流など、大同小異といわれながらも多くの流派を生みだすほどの人気だったのである。
 芸能の世界にも御家流を通じた「書」への関心の高まりをみることができる。
 延享三年(一七四六)八月二十一日から翌年三月まで、竹本座(大阪市)で打ち続けた浄瑠璃は「菅原伝授手習鑑」。学問の神様として今でも受験者に人気の菅原道真が登場する。しかも戯曲の山場が「寺子屋」の段、寺子屋の師匠に登場させたのが建部伝内をもじった「武部源蔵」。道真が伝内夫婦を屋敷に呼んで、菅家の筆法を伝授する場面まである。
 宝暦四年(一七五四)には「小野道風青柳硯」、寛政四年(一七九二)四月、川原崎座で上演された「杜若七重の染衣」では、あどけない少女が袂をひるがえしながら、手習草子を提げ、日傘をさして登場し、桜の花を眺めながら踊るシーンもある。
 「書」が、当時の寵児となった時代の息遣いが伝わってくる。戦乱から遠ざかって久しく、村を治める支配者はまちに住む。徴収すべき年貢や諸役の内容などは、領主役所から村役人へ文書で伝達される。伝達された文書の内容がわからない村民は、誰かに読み解いてもらうしかない。領主にとっては、公平を徹底するために、村民が字を読み、書くことが欠かせない時代になっていた。寛永二十一年(一六四四)、幕府は領主法として、村民が理解できることを前提に、年貢や諸入用の書類を村中の百姓が立ち会って確認することを求めている。幕府は「書」を、治世に不可欠なものとして習得を奨励する時代だった。
 余談はここまでにして、間人寺子屋のことである。
岩田照彦
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