神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)

東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)

 三村を治めるひとのはなしである。

 幕府の柴田剛中が江戸へかえったあと、三村は薩摩と長州兵の管理下におかれた。

 が、幕府にかわる政権が誕生したわけではない。三村にとっては空白の時代である。

 政権の変動が三村にどれほどの影響をあたえたか定かでないが、日常のくらしにかわりはなかった。

 神戸村の庄屋である生島四郎大夫を頭に、走水村には船井長四郎、二つ茶屋村には高濱太左衛門、吉田七郎兵衛、船井長兵衛、神戸村の中西市助、竹中平右衛門、八田喜四郎など年寄で村の秩序はたもたれている。幕府の治世下にあった二五〇年余にのぼる、年寄から庄屋を中心にした村の秩序が、そのままいかされていたのである。

 薩摩・長州を中心とする新政権の代表として、幕府領であった三村へはじめてやってきたのは東久世通禧である。

 尊王攘夷を信奉ずる公家である。文久三年(一八六三)、公武合体派の画策で長州へ逃れた七人のなかのひとりである。二つ茶屋村の専崎彌五平に縁のある兵庫の回船問屋・樋上権兵衛が手配した船で三田尻へむかった。

 その東久世を神戸をひきだしたのは、備前兵が外国人に発砲した事件である。三村一帯は外国軍によって包囲され、港に停泊していた船舶も拿捕される。

 王政復古は宣言したが、外国にたいする通知はしていない。そのなかで起こった殺傷事件である。

 王政復古を宣言し、鳥羽伏見の戦いで勝利したが、幕府の本拠である江戸は健在である。新政府を自認しても外国が承認したわけではない。外国に承認されることが、新政府としての始まりである。新政府を日本の政府と認めない国が、幕府と手をむすぶことも懸念される。黒白の決着は、外国の承認にあるといってよい。

 攘夷の思想はいまだひろく根をおろしていた。その思想までもちあわさなくても、いままでの習慣やしきたりでひとは動いている。三宮神社のまえで起こった備前兵の事件も、日本の武士としてあたりまえの措置だった。相手が外国人という不運が、国を動かす事件に発展させたのである。

 東久世は、京都の新政府で参与兼外国事務取調掛であり、外国との間におこった事件の最高責任者である。

 慶応四年一月一五日、国の勅使として衣冠装束に威儀をただし、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、プロシャ、オランダの代表と運上所で会見、王政復古の宣言をよみあげる。諸外国にたいして日本の開国を宣言、備前藩の処罰と居留民の生命財産の保護を条件に和解する。

 新政府の統治者としてはじめてやってきた代表だが、外国との交渉ごとに終始した。外国への王政復古の宣言と三宮の事件が解決すると、東久世は横浜裁判所の総督に任ずる命をうけた。伊藤俊介や北風正造と二〇日間にもわたり魚料理と酒をたのしんだあとの三月一九日、神戸をさる。
岩田照彦
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