神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

写真の話(5)

写真の話(5)

 商い、としての写真師の話を書いてきた。商いとは言いながら、機械を通して、そっくりそのままの姿を写す技術は、ごく一部の人に限られたため「師」がついた。
 自分の姿を自分で残すことはできないが、写真という形になると、後世に、その姿を残すことができる。家族にとっては、貴重な宝物になる。写真がもてはやされたのも、そうした理由からだろう。
 庶民は、ただ自分の姿を写してもらって後世に残した。写真術に熱をあげた藩主もあった。薩摩藩主の島津斉彬である。斉彬は、殖産興業政策に熱を入れた。製鉄所をつくり大砲、火薬、ガラス、陶磁器、アルコールまで試作したほか、洋式艦船まで建造、ガス燈や電信機のほか写真機も制作している。
 その写真について斉彬は、嘉永二年、水戸の藩主斉昭におくった手紙で、写真機を「印影鏡」と紹介、「この術は、父母妻子の容姿を、百年後に残す貴重の技術にして、実に人事中、至要なる技術なり、深く究め、永く修めてその術を極むべし、あに一時の遊戯となすべきものならんや」と書いている。鹿児島県の照国神社には、斉彬の写真が、ご神体として祀られている。薩摩藩おかかえの蘭学者川本幸民は、我が国最初の写真術書「遠西奇器述」を刊行、写真術開創の鹿児島といった存在だ
 薩摩藩の影響を受けた福岡藩でも、藩主の黒田長溥が写真術を奨励、そのほか佐賀藩、津藩、水戸藩、大垣藩などでも盛んだったという。
 アマチュアカメラマンの代表格は、第十五代将軍職をつとめた徳川慶喜だろう。夫人や母君のほか、自分の肖像写真も多い。
 明治も中ごろをすぎると、ハイカラ紳士の趣味団体として、各地にカメラの同好会が生まれている。明治三十七年一月には大阪に「浪華写真倶楽部」ができ、撮影会や展覧会が行われた。京都では「京都写真協会」も誕生した。ハイカラでは他の都市に負けないと、神戸で
は「浪華写真倶楽部」より一足早く、明治三五年、赤壁商店が「神戸写友会」を結成、アマチュアカメラマンを集めて活動をはじめている。
 今、元町商店街では、元町一番街のカツミ堂が「写真寺子屋」の名で、アマチュアカメラマンの指導をうけつぎ、元町の写真界を引っ張る存在だ。
岩田照彦
PCサイトを見る スマホサイトへ戻る