神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

大西座 (十)

大西座 (十)

 神戸の劇場を代表した大西座の行方をおっておわりたい。
 文久元年から今の元町六丁目にあった大西座は明治三年、建物をあらたにして神戸を代表する劇場になったと考えられるが、明治八年外弁天の地にうつる。
 四メートルあまりの道幅では、市場町にあふれる客を誘導する通りとしてはあまりにも手狭になりすぎたのだろう。人口の急激な増加途上にあるまちの劇場には、桟敷客よりも大衆席の客が多数をしめ、より多く客を収容できる劇場が必要とされた。もともと市場があったことからなずけられた町であり、周囲には商店や人家が軒をつらね、芝居人気に包まれた多くの客をむかえるにはふさわしくないまちになっていた。
 おもいのままの設計ができる広い土地で「人気頗る活発にて、廓内夜として喧嘩口論を絶たず」といわれた遊郭も、鉄道施設のために西国街道の北へ数町を離れた新福原に移転してしまっている。芝居はもはや、人々の暮らしにかけがえのない娯楽として定着しており、より広い劇場での興業がもとめられていた。
   明治十六から十七年ころ、大西座は弁天地内から楠社境内にうつって多聞座と改称する。 楠社、湊川神社である。伊藤俊輔らの建設請願をうけ、民間や明治天皇の寄付、地元豪商北風荘右衛門らが造営係になって明治五年五月、鎮座祭をひらいている。芝居は古くから広い境内をもつ神社や仏閣の境内を利用して行われてきたが、造営後、参詣者相手の小屋掛け程度のある盛り場だった。
 そこへ進出したのが多聞座である。この地へ進出した劇場として先駆者的な存在であった。「多聞座」の名前は、湊川神社の祭神である楠正成の幼名を多聞丸といった由来からとられた地名をそのままとりいれて町いちばんの劇場と宣言したのだろう。
 五年後の明治二十五年、多聞座は廃業する。明治十九年の劇場取締規則発布によって、神戸区内で劇場を六カ所に制限されたのを機に営業権である櫓株(やぐらかぶ)を譲渡して相生座と名前をかえた。ほかに大黒座、朝日座があり、浪花節、娘義太夫、娘手踊、落語などの寄席軒をならべて湊川神社の境内を含む界隈は神戸市内の中心娯楽地に成長していく。
 明治二十九年、湊川の氾濫で受けた大きな被害を機に、湊川の付け替え工事に続いて堤防の切り崩しにより南北に空き地ができた。
 湊川新開地である。
 湊川新開地はその地域広く、かつ兵庫神戸の境界にあることから娯楽場の建築、遊覧者の集散にも便利である。火災にあった相生座が、明治四十年、劇場として真っ先に湊川新開地へ進出した。これにならうもの続出し、大正二年には衆楽館ができ、兵庫の繁華街は、その地位を湊川新開地にゆずることになる。
 神戸一の繁華街といわれた新開地だが、東の三宮神社付近は、新開地の影響をうけなかった。境内には屋台の劇場が軒をならべ、規模はともかく、人足のとぎれることのないまちだった。神戸市史はその理由を「これ殷賑なる元町通に接するが為めなるべし」と書いている。
岩田照彦
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