神戸元町商店街 KOBE MOTOMACHI SHOPPING STREET

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MOTOMACHI MAGAZINE MOTOMACHI MAGAZINE 元町マガジン

元町、という地名が登場するのは明治七年の五月である。以来、町名の根拠は、はじめにできたまち、もとのまちということになっている。

神戸村

神戸村

 走水村から二茶屋村へ村名の由来をおってきた。 二茶屋村の東にひろがるのが神戸村である。 元町通三丁目から生田川へかけての一帯になる。 現在の元町をはみだした地域もふくむ地名になるが、由来をみるうえで分断することはできず、 走水、二茶屋の、由来探求の流れにそって、「神戸」について考えてみたい。
 神武からはじまる天皇の第十代に崇神天皇がある。 古事記や日本書記のう鼠仍えでは先代開化天皇の第二王鼠仍子とされる。 名前の通り「神」を「崇(とう鼠仍とぶ)」天皇だった。 自らはつつしみ深く人にはやさしい性格の天皇で、皇位をつぐとき、役人とともに誠をつくして人民のくらしを安らかにすると宣言している。
 即位して5年目、流行病にかかる民が半数をこえる事態が発生した。土地を離れる百姓もある。 神が下した罰にちがいない、崇神天皇が、災いの根源をきわめるために行ったのは亀占いである。 占いのこたえは「神を敬い祭れば、おのずから平癒」するだった。 祭りをしたが効果がないところから、さらに確かめたところ、「八十万の神々を祭るとよい」。 天皇は天社、国社と社格をきめたうえ、神の領地と神に奉仕する「神戸」を定めた、とある。 神社の経済的な安定を確保することによって神をなぐさめようとしたのである。 疫病は静まり、五穀もみのって百姓も安堵して暮らすようになった。
 生田神社はどうか。 大同元年(806)の記録に、生田神社には44戸の「神戸」をおいたとある。 「神戸」の1戸について15~30人を単位としていたのにたいし、一般的な封戸あたりの人数は12人程度だった。 戸あたりの年貢や労役がきめられる。 人数の多いぶん、負担はかるい。そのため、「封戸」から「神戸」にくら替えするものがあとをたたなかったという話も残る。 1戸を30人とすれば、44戸は1320人にもなる。 うっそうとした広大な生田の森に囲まれた神社とはいえ、人口の少ないころ、千人をこす人数は周辺住民のすべて、といってよい。 ちなみに宝暦10年(1760年)の神戸村の人口は1985人である。 豊富すぎる水に一喜一憂した走水村を象徴する災害もなく、二茶屋村のような武士の出世談もない地域にとって、住民のすべてといってもよい生田神社の神戸をそのまま村の名前にしたことは、ごく自然なものとうけとめてよい。
国が管理する封戸、つまり国家財政のなかから神社へ配分するものを「神戸」としたもので、一神社のために住民を特定したものではなく、生田神社の神戸に地名の由来をもとめるのは早計、とする意見がある。 米やその他、現物による年貢は、すべて国の管理する倉庫に納められ、戸に応じて配分されるという経緯から、直接、神戸の里とみるのは疑問、とするものである。
 読み方はさまざまだが、「神戸」の文字を地名にするところは多い。 かのと・かみと・かみど・かんど・かんべ・ごうと・ごうど・こうど・じんご・じんど、とある。 こうべと読むのは少数派だ。いづれも、神戸の住む土地ゆえに名付けられた地名ではないか。
 地元住民の生田神社への信仰心の厚さから、祭り事をはじめ神社に対する奉仕活動は近くに住む人にたよるところが大きかったはずである。 その中には地元の有力者や知識人が多く、村の名前に「神戸」以外、思い浮かばなかったのではないか。
 神戸を「かむべ」とはせず少数派の「こうべ」とした読みに、おしゃれな気分を感じさせる。
岩田照彦
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